東国剣記

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【戦国負傷統計を見直す 補】戦国時代申告された石礫傷はほとんどが城・高所に関連するものと確認 追加

 【島原の乱の宮本武蔵】の記事が終わっていませんが、軍忠状・手負注文類で新たに石による負傷者を見つけましたので【戦国負傷統計を見直す】の補足として紹介しておきます。今回の二つはよくある「石疵」「礫疵」等ではなく、あまり多く使われない「当石」であったので見逃していた類です。ギリシャ文字のナンバリングは【戦国負傷統計を見直す3】からの続きとなります。

 

永録2年五徳小屋当石衆


ε『佐田隆居手負注文』(※1)
石礫傷計:8人
分類:攻城戦(五徳小屋)

 

 「当石衆」という本文からわかるようにこの手負注文は全てが石による負傷をした者のリストとなります。五徳小屋の「小屋」も現代人のイメージするような小屋ではなく以下のような城郭と関連した施設と考えられます。


■『山武町史 通史編』(※2)
・中世末期、地方一帯が戦国の動乱に巻き込まれると、村々の土豪層は屋敷の周囲に土塁・空堀をめぐらし、付近の台地上に要害城を構えていた。いわゆる「戦国丘陵式城郭」であるが、あくまで戦時下のもので、日常生活は麓の居館「根小屋」で過ごした。この「根小屋」地名は、芝山町の飯櫃城(根古屋)・山中城(根子屋)、成東町の津辺城(根古屋)、横芝町の坂田城(根古家)などに認められる。郷土地方では、根小屋の地名は少なく、古屋(小屋)・屋敷・居(すまい)の用例が多い。(中略)この古屋(小屋)は、根小屋と同義語であるものと理解され、


 五徳小屋に関しては香春岳城(鬼ヶ城)に関連した(根)小屋の類と解釈するのがひとまず無難と言えそうです。また、その五徳という土地自体も、


■『香春町誌』(※3)
・愈々五徳谷に向って下る。左手の屏風の如く突立つ三、二、一の岳、その絶壁奇巌の偉容は岳の表とは又趣きを異にして壮大と云うほかはない、白米落(シラゲオトシ)の巌壁はあれかと鬼カ城史の昔語りをなつかしみつつ下る。麓の部落五徳は、昔は随分淋しい処と云われてきたが、今日ではすっかり姿を変え、電灯もつき、家々に共同電話が持たれ、道路が改修され、自動車も部落の中まで来る。最早や昔の五徳谷ではない。

日本歴史地名大系 「五徳」の解説
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%94%E5%BE%B3-503023
福岡県:田川郡香春町下香春村五徳
中世からみえる地名。香春岳と牛斬山地との間に開けた谷奥の狭小な地で、金辺川支流の五徳川の上流域に比定される。永禄二年(一五五九)一〇月一日の佐田隆居手負注文(佐田文書/熊本県史料 中世篇二)に「於田川郡五徳小屋、当石衆注文」とあり、毛利方に通じた北豊前・北筑前の国人を制圧するために大友軍による香春岳城攻撃の前哨戦が当地で行われた。この戦闘で、毛利方の礫に当たって負傷者が出ている。西隣には夏焼庄(現田川市)があって早くから開発されたとみられ、鎌倉時代初期とみられる弥勒喜多院所領注進状(石清水文書/大日本古文書四―二)にみえる「護得名田」四〇町は当地の可能性が高い。

 

 というような険しい山に囲まれた谷奥にある集落で、五徳小屋も山城麓の居住地として付属の防御施設を持つだけでなく「小屋」の立地自体が断崖の低い所や山の端など麓としては高めの地形を利用していた可能性もありそうです。何より香春岳城合戦の一戦場ではなく独立した形での前哨戦として記録に残る辺り、やはり単なる居住地というよりは城の入口を守るそれなりの防御力のある施設・建造物であったのではないかと考えて問題ないのではないかと思います。従ってこちらも攻城戦・防御施設・高所などと関連した石礫傷8人分とすることができるでしょう。


 そしてあともう一つ「当石」とある軍忠状を見つけてあります。後述のものと比べる都合上こちらは石傷以外の部分もタイプしました。

 

天文22年里城


ζ『王丸隆軍忠状案』〇児玉韞採集文書 三(※4)
石礫傷計:2人(注意事項あり)
分類:攻城戦(里城)

 引用元の『九州荘園史料叢書第4 筑前国怡土荘史料』によると里城は高祖里城。福岡県の高祖山にある里城ということのようです。引用元にはこの文書以外にも別の軍忠状を含む「里城切崩」「原田隆種御退治」に関する複数の関連文書が掲載され、ある程度大きな規模の攻城戦が行われたことがわかります。

 

 ということでこちらも攻城戦・防御施設などに関連した石礫傷2人分としたいところですが、実はこの文書には以下『編年大友史料 併大分県古文書全集第19』(※5)に掲載されたもののように「当石」ではなく「当所」とする別の翻刻が存在する問題があります。

 


 「矢疵」「鑓疵」とある中で「当所一ヶ所」では意味が通りにくくなるためやはりこれは石の負傷を意味しているのではないかと考えたくなりますが、史料の字そのものを確認したわけではないですし、極力自説有利な計算にはしない方針なのでこちらはひとまず保留とし、現状ではデータには組み入れないことにします。

 

 ということで今回の分は、攻城戦に関わる石礫疵8人・保留2人となりました。これを加えると攻城戦・高所・防御施設などが関係する石傷は190人中186人となり、それらとの関係が確認できない石傷は4人/190人。【戦国負傷統計を見直す3】で一度集計したものとパーセンテージとしてはほとんど変わりませんが、鈴木眞哉氏が集めた160人から30人上回る形となった上でその割合なので、負傷統計から見て戦国時代は野戦投石が主体だったなどという説は成立し難いと改めて確認できました。

 


引用元・参考文献
1:熊本県・編 『熊本県史料 中世篇 第2』(熊本県
2:山武町史編さん委員会・編 『山武町史 通史編』(山武町
3:香春町編集委員会・編 『香春町誌』(香春町
4:新城常三 正木喜三郎・編 『九州荘園史料叢書第4 筑前国怡土荘史料』(竹内理三)
5:田北学・編 『編年大友史料 併大分県古文書全集第19』(田北学)