東国剣記

東国の剣豪、武芸、中世軍記、そのほか日本の合戦諸々について扱うブログです。

【『平家物語』の二刀流①】『延慶本平家物語』源行家の二刀流剣術(前)

 二刀流剣術と言えば一般的にはその代名詞とされる宮本武蔵の例など戦国時代以降の技術とイメージされることが多そうですが、『平家物語』諸本を見る限り、鎌倉時代に遡り得るか、遅くとも室町前期には発想の存在した戦闘方法であることもわかります。その戦国以前の二刀を使用した例としては『太平記』の新田義貞のものも知られていますが、


■『太平記』巻十六(※1)
・ただ十方より矢衾を作って射ける間、その矢雨の如くなりにけり。されども義貞は薄金といふ鎧に、鬼切・鬼丸とて源家累代の重宝を二振帯かれたりけるを抜き持つて、降る矢をば飛び越え、揚る矢をば指しうつぶき、真中に中る矢をば切つて落とされける間、その身は恙もなかりけり。


というように、こちらは実は矢に対する防御用に太刀を二振り抜き放っているだけでその太刀が敵への攻撃に用いられることはなく、純粋に戦闘に用いられた二刀流剣術とは言い難いものがあります。

 

 また、『太平記』は集団による地味な楯突戦や攻城戦なども数多く描いていて、決して絵空事のような戦闘場面のみに終始している訳ではないのですが、このような個人の武勇を扱う場面になるとどうにも超人的に描いてしまう傾向があるようで、こちらの義貞の二刀の場面も周囲の敵から射られた矢を飛び越えたりうつむいて避けたり二振りの太刀で正面に来た矢を切って落とし、その身に傷を負うこともなかったというような内容となっております。

 

 これは実際の出来事の反映や現実の戦術に準拠したというよりは、誇張のたっぷり入った見ごたえのある場面として創作されたと捉えた方がよさそうです。それに比べると『延慶本平家物語』に登場する二刀流剣術は、地味ながらも中々リアリティのある戦いぶりとなっています。


 本文の説明に入る前にまず『延慶本平家物語』とは何かということですが、『平家物語』には現在一般的なイメージの元となっている平曲(平家語り)の台本である『覚一本』系とは異なる異本が何系統も伝わっており、未だ議論はあるにしてもその中でも鎌倉時代延慶2(1309)年・同3年書写のものを、応永26(1419)年・同27年に写したとされる『延慶本』は諸本の中でも特に古態(古い形)を残すという評価があります。この『延慶本』に関して『源平合戦の虚像を剥ぐ』の川合康氏などは、


■『源平合戦の虚像を剥ぐ』(※2)
・ちなみにここで引用した『延慶本平家物語』は、ほかの平家物語諸本と比べ古態性を維持しており、底本の成立時期は十三世紀前半、鎌倉前期と推定されている。したがってここに描かれた戦闘様式の変化は、治承・寿永内乱期のもので、けっして鎌倉末・南北朝期の戦闘を反映したものではないことを確認しておきたい。


という前提での持論を展開されております。もし川合氏の言われる通りであれば、今回扱う二刀流剣術は治承・寿永内乱期~鎌倉前期にまで遡り得る戦術になりますが、『源平合戦の虚像を剥ぐ』が出版されてから25年以上経ち『延慶本』研究も当時以上に進んだ現在としては、そこまでの信頼を寄せていいのかは正直なところ迷いがあります。個人的にはひとまず治承・寿永内乱期そのものとまでは考えなくとも、『春日権現験記絵』と同じ鎌倉時代後期延慶年間辺りの戦闘様式を探る手掛かりと考えられるだけでも十分な価値があるのではないかと思います。


 では、問題の箇所を確認しましょう。その『延慶本』において二刀流剣術が登場するのは、平家滅亡後に義経ともども鎌倉方に追われる立場となったその叔父の行家(十郎蔵人、為義の子で義朝や為朝らの弟)が潜伏していた屋敷に北条平六(北条時定あるいは時貞)から捕縛のために常陸房昌命という法師武者が送り込まれ、屋内での戦いとなる場面です。以下、『延慶本』原文は片仮名文ですが、読みやすさのために平仮名に改め、一部に読みや注釈も入れてあります。


■『延慶本平家物語』「第六末」(※3)
・昌命は大刀打付たる黒革綴の腹巻に、左右の小手指して、三枚甲きて、三尺五寸ある大刀をぞはきたりける。行家は白直垂小袴に、打烏帽子にえぼしあげして、右の手に大刀を抜き、左手に金作の大刀のつばもなきを抜て額にあてて、ぬりごめの前にて待懸たり。


 三尺五寸(刃渡り約106センチ)という大太刀を佩き、腹巻・両籠手という徒歩の打物戦(白兵戦)向きに武装した姿で屋敷に入って来た追手の常陸房昌命に対し、平服で左右に太刀二振りを抜き放った行家が塗籠の部屋の前で待つという構図から戦いが始まります。行家が左手に持つ金作(黄金での外装が施された)の太刀の鍔は奉納してしまったので付いていません。

 

 『覚一本平家物語』(※4)の同じパートでは「左の手には金作の小太刀をもち、右の手には野太刀のおほきなるをもたれたり」となっており、『延慶本』のこのパートでも後ほど行家による小太刀での刺突攻撃が登場することから、右手が大・左手が小という組み合わせの二刀流のようです。ただし、後に独立した記事を書くつもりですが、鎌倉・室町ごろの小太刀と呼ばれる刀剣は後世のものよりは長さがある傾向を持ちますのでイメージする際は注意が必要です。なお、この大小の持ち方は例えば後世の心形刀流の伝書を見ると、


■『剣攷』三心刀(※5)
・まづ尋常の二刀は、短刀左手に在り。長刀右手にあり。


というように「尋常の二刀」とされています。「左手に金作の大刀のつばもなきを抜て額にあてて」という構えは、『延慶本平家物語全注釈 第六末(巻十二)』(※6)によると「太刀を正面に構えた戦闘態勢」とのこと。この場合は完全武装の昌命に対して平服で防御力が期待できない行家が、特に頭部正面を防ぐための構えと見ることもできそうです。そしてこの構えからどのような攻撃が展開されるでしょうか。以下に続きます。


■『延慶本平家物語』「第六末」
・昌命少(すこし)もはばからず寄合たり。昌命三尺五寸の大刀にて、もろ手打に打ければ、行家は三尺一寸の大刀をも(つ)て、右の手にて丁(ちやう)と合(あはせ)て、左の手にては金作の大刀取延て、物具のあきま(鎧の隙間)をささむとすれば(刺さんとすれば)、昌命さされじと(刺されじと)をどりのく(踊り退く=飛び退く)。昌命又つと寄て大太刀にてきれば、行家ははたと合て、又左手にてささむとすれば、をどりのく。


 両手遣いによる三尺五寸の太刀で打ってくる昌命坊に対し、行家は右手に持った三尺一寸(刃渡り約93センチ)の大刀で「合わせ」る形で防ぎ、同時に左手の「金作ノ大刀」は「左手にてささむとすれば」というように完全武装した敵の数少ない弱点である鎧の隙間を刺突する攻撃を繰り返します。源平合戦期において想定される鎧の隙間とは具体的には、


■近藤好和『弓矢と刀剣 中世合戦の実像』(※7)
・これは大鎧を中心とした甲冑の隙間、甲冑や小具足では防御しきれない部分のことである。一番の間隙は、内兜、首などの顔面周辺、また、引合の間隙や両脇下、さらに「胸板のあまり」や「草摺のはずれ」などもよくねらわれる部分。


とのこと。現在名前が「腹巻」とは呼称が入れ違っている「胴丸」と呼ばれる徒歩鎧の遺品を見る限り、首周りは後の時代に使われる咽喉輪のような小具足が無ければ守りが薄く、案外隙間も大きいように思えます。小具足といえば、鎌倉時代には基本的に顔面を覆う面頬の利用もなく、当然『延慶本』のこの箇所でも記述はありません。行家の左手側が「金作の大刀のつばもなきを抜て額にあてて」という上段を思わせる構えを継続しながら戦っているとすると、やはり狙いやすいのは近藤氏が「一番の間隙」とする内兜(兜の内側の顔面部)や首、後は肩回りになるのではないでしょうか。

 

 そしてこの突きに対する昌命坊の対応は「をどりのく」という動きの大きな回避となっており、しかもその描写が繰り返される形になるので、行家の刺突攻撃が甲冑をまとった昌命を再三苦しめているということになります。

 

 このような片方の刀で受け、もう片方で突くという二刀流の戦い方は後世も見られます。以下の心形刀流水月刀(水月)」は大刀・小刀の左右は行家と逆になりますが、右手側で受け左で突く二刀の技です。


■『心形刀諸流目録』(※5)
水月
・打太刀陽
仕手、左に長刀を下段に持ち、右に短刀を上段に持ち、左先に出、敵の打つ太刀を、短刀にて止め、長刀にて敵の心を突也。


 一方、小刀側で勝つ二刀流も後世の武芸伝書に見られます。以下は忠也派一刀流の伝書ですがこちらには「外物(とのもの)」という元々の一刀流剣術外の技術の一つとして二刀流が伝えられていたようで、その中の四本目が大刀の方で打ち掛かって止めさせ、小刀側で勝つ組太刀となっています。


■『一刀流兵法目録』(忠也派) 外物之事(※8)
〇両刀 四本目
・刀(仕太刀=遣い手側の大刀)を陰にとり、虚をみせて打掛け、打太刀(仮想敵)、中清岸より留る処を下段の小太刀にて勝つ。


 また、倭寇平定に活躍した胡宗憲を扱った明代の小説に小刀の方が決定打となる倭寇の二刀戦術が登場します。


■『西湖二集』
『胡少保平倭戦功』・倭酋交戦之時左手持着長刀殺戦却不甚利便、其右手短刀甚利、官兵与他交戦、只用心対付他左手長刀、却不隄防他右手短刀、所以雖用心対付他長刀之時、而右手暗暗掣出短刀、人頭已落地矣。


:(意訳)倭寇の長は交戦の際長い刀を左手に持ち戦うが、それほど便利なものではない。右手の短い方の刀が甚だ利がある。交戦した明軍兵士はただ左手の長い方の刀だけを用心し、右手の短い刀を防ぐことはしない、長い刀に対する用心をしているといっても、右手で密かに引き出される短い刀によって、首を落とされてしまう。

taiwanebook.ncl.edu.tw(該当箇所はPDF文書232P。書籍のページ数では652P。最初に全ページ読み込む形になるようなので閲覧の際はご注意下さい)

 

 倭酋というリーダー的な立場の者の技能なので、後期倭寇においては数少なかったという真倭と呼ばれる日本人の剣術を想定していそうです。「掣出(引き出す)短刀」という表現を見ると最初は左手の長刀だけで戦いながらこっそりと短刀の方も抜いて奇襲する戦い方かもしれません。小説なので誇張も少なくないでしょうが、興味深い話だったのでこの機会に紹介しておきます。今回はひとまず手元にあるものから出しましたが、探してみるともっと小刀で勝つ二刀流剣術が見つかりそうです。

 

 さて、昌命の大太刀の三尺五寸という刃渡りは『延慶本平家物語全注釈』によると、


■『延慶本平家物語全注釈 第六末(巻十二)』
・相沢浩通は〈延〉の「大太刀」の用例を集め、三尺五寸で大太刀と称されるのは五例と多く、「大太刀」の指標であると指摘する。


という大太刀の基準となる長さであるとのこと。『延慶本平家物語』だけでなく、鎌倉時代文保年間書写の『文保本保元物語』と同系の古態本とされる『半井本保元物語』においても同軍記における最強の武者として活躍する源為朝の佩刀が、


■『半井本保元物語』上巻(※9)
・ネリツバノ太刀の三尺五寸ナルニ、熊ノ皮ノ尻ザヤ入テサゲハキタリ。


とあるので、『延慶本平家物語』に限らず鎌倉時代の大太刀の指標がこの三尺五寸だった可能性もあります。

 

 それに対し、行家が右手に持つ三尺一寸の太刀は見劣りするようなサイズに思えますが、実の所決して短いわけではありません。参考までに「佐々木小次郎の物干し竿」として現在知られる剣に関するイメージの大元となっている『二天記』やその原型の『武公伝』の記述を確認してみましょう。


■『武公伝』(※10)
・小次郎、幼少より勢源が打太刀を勤め、勢源は一尺五寸の木太刀を以三尺の刀に対し勝事を為す。小次郎、常に三尺を以勢源に対て粗技能あり。

・小次郎は猩々緋の袖無羽織(或云立孝公より拝領也と)に立付を着、草鞋を履、三尺の霜刃を抜て鞘を水中に投げ、水際に立て武公が近くを迎ふ。


■『二天記』(※11)

肥後文献叢書. 第2巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション


・岩流小次郎と云剣客有り、(中略)幼少より稽古を見覚え、長なるに及んで、勢源が打太刀を勉む、勢源は一尺五寸の小太刀を以て三尺余の太刀に対して、勝つことを為す、小次郎常に大太刀を持て、勢源が短刀に対して粗技能あり、

・小次郎は猩々緋の袖なし羽織に、染革の立付を着し、わらんじを履み、三尺余の刀を帯す、備前長船の由、甚た待ちつかれ、武蔵か来るをはるかに見、


 後年の『二天記』のほうが三尺余(刃渡り約90センチ少々)と少し長めに表現されていたり備前長船という情報が付け加えられたりの変化はありますが、基本的に小次郎の得物は三尺程度の太刀とされています。つまり行家が右手に持つ太刀は三尺一寸とこれよりも明確に長いのです。『武公伝』『二天記』のいう小次郎以上の長剣を片手で遣い続ける『延慶本』の行家は、余程の剛の者として描かれていると見るべきか、あるいは太刀を馬上などで片手遣いすることは当たり前だった時代なのでこの体力自体はそれほど当時の標準を越えるものではなかったと見るか、判断の難しいところです。


 長くなってしまったので、ひとまずここで区切りを入れます。実のところ行家の二刀流が昌命に対して押し気味だったのはここまでとなり、見るべき動きも今回で大体紹介してしまっておりますので次回は補足的な内容です。ということで、後編では戦いの結末とそれに関連した『延慶本』作者の武士観、昌命が語る行家の二刀に対する感想、『覚一本』などの『平家物語』別本の同じ場面や『吾妻鏡』における行家捕縛の記事との比較、等となります。


引用元・参考文献
1:長谷川端・校注 訳 『新編日本文学全集 太平記②』(小学館
2:川合康・著 『源平合戦の虚像を剥ぐ』(講談社
3:北原保雄 小川栄一・編 『延慶本平家物語 本文篇上・下』(勉誠社
4:高木市之助 小澤正夫 渥美かをる 金田一春彦・校注 『日本古典文学大系 平家物語』(岩波書店
5:今村嘉雄・編 『日本武道全集 第一巻』(人物往来社
6:延慶本注釈の会・編 『延慶本平家物語全注釈 第六末(巻十二)』(汲古書院
7:近藤好和・著 『弓矢と刀剣 中世合戦の実像』(吉川弘文館
8:栃木孝惟 日下力 益田宗 久保田淳・校注『新日本古典文学大系 保元物語 平治物語 承久記』(岩波書店
9:今村嘉雄・編 『日本武道全集 第二巻』(人物往来社
10:松延市次 松井健二・監修 『決定版宮本武蔵全書』(弓立社
11:武藤巌男 宇野東風 古城貞吉・編 『肥後文献叢書 第二巻』(隆文館)

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