東国剣記

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【みね打ち①】『平家物語』『義経記』のみね打ち

 刀の刃ではなく、その裏側の峰で殴ることで命を奪わずに済ませる「みね打ち(棟打ち)」という攻撃手段ですが、これは近年の芝居や時代劇ドラマなどの都合から生まれたものではなく、中世・近世の文献を調べてみると意外と古い時代から見られるものであることがわかります。今回は源平合戦の時代を舞台とする『平家物語』や『義経記』から紹介しましょう。

 

 まずは後白河院の御所である法住寺殿において文覚上人が狼藉に及んで取り抑えられる場面です。

 

 

■『覚一本平家物語』 巻第五 (※1)
信濃国の住人藤武者右宗、其比当職の武者所でありけるが、「何事ぞ」とて太刀をぬいてはしりいでたり。文覚よろこ(ン)でかかる所を、き(ッ)てはあし(悪し)かりなんとやおもひけん、太刀のみねをとりなをし、文覚がかたなも(ッ)たるかいな(腕)をしたたかにうつ。うたれてち(ッ)とひるむところに、太刀をすてて、「え(得)たりをう」と組んだりける。くまれながら文覚、安藤武者が右のかいなをつく。つかれながらしめたりけり。互いにおとらぬ大ぢからなりければ、うへになりしたになり、ころびあふところに、かしこがほ(賢顔:文覚の狼藉に驚いて逃げた院中の人々がもっともらしい顔で)に上下よ(ッ)て、文覚がはたらくところのぢやうをがうして(ン)げり。

 


 院の御所内において仏僧の命を奪う事件などを起こしてはならないので、院中守護の武者所であった安藤右宗はみね打ちで取り押さえようとしますが、元武士で剛力の持ち主でもある上人は容易には参りません。少々怯んだところを安藤側は太刀を捨てて組んで抑えつけようとしても、上人が持ち込んできた刀で肘を突かれたり上になったり下になったりという互角の状況になってしまい、そこに院中の者が寄ってきて殴ったり打ったりして(拷して)ようやく取り押えられたという流れです。

 

 この場面を『平家物語』異本の中でも古態を多く残しているという説のある『延慶本』で見てみましょう。安藤右宗と文覚(学)の捕物劇があるのは一緒ですが、その内容には意外と違いがあります。なお以下『延慶本』引用文は原文の片仮名を平仮名に改めてあります。

 


■『延慶本平家物語』第二末 (※2)
・文学(文覚)少もひるまず、悦てかかる所を、右の肩を頸かけて、大刀のみね(峰)にてつよく打たりけるに、打たれてちとひる(怯)むやふ(様)にふ(伏)しにける所を、大刀をすてて組て伏す。文学いだかれながら、右宗がこがひな(小腕)を突く。つかれながらしめ(絞)たりけり。其後ぞ、者共かしこがをにここかしこより走出て、手取足取、はたら(動)く所をば、かくかく打どもは(張)れども、少もいた(痛)まず、猶散々の悪口を吐く。

 


 少し弱らせただけで組みにかかるが、そこからも上になり下になりという激しい組討ちのような展開になる『覚一本』とは異なり、「右の肩を頸かけて」の部位を強く峰打ちすると怯むように伏せてしまったので、太刀を捨て取り抑えるという流れです。『覚一本』に比べると随分あっけない捕縛劇ですが、現実の人間であれば鉄の棒で叩かれれば当然弱りますし、太刀を捨てる理由にしても『延慶本』のほうが自然です。ただし上人はその他の者が後からやってきて動くところを叩くという所では痛む姿を見せず罵倒し続ける辺り、常人以上の頑強さ、或いは意地を見せています。

 

 ちなみにこの点においては覚一らの一方流とは異なる平曲流派である城方(八坂)流の『城方本』も最初に挙げた『覚一本』同様の展開を取ります。

 


■『城方本平家物語』(※3)
・文覚が 刀持たる方の かひなを 太刀の峯にて 肩かけて したたかにうつ うたれてひるむ所を 太刀なげ捨 走懸つて むずとだく 文覚は だかれながら 右宗が かひなをぞ ついたりける 右宗は つかれながらぞ しめたりける 文覚もつよし 右宗もつよし つよかりければ 互に 上になり 下になり ころびあふ所を ここかしこへ にげ ちりたりつるもの共 わが 高名がうに ちぎり木 さいぼうを もつて より 文覚が はたらく所の ぢやうを さんざんに がうしてんげり

 


 しかも『覚一本』と大体において共通ながら、「文覚もつよし 右宗もつよし」などますますお互いが甲乙つけがたい力を持っていることを強調されています。このパートにおいて語り本系の作者は文覚の力強いイメージを弱めたくなかったのか、捕物劇を語りで盛り上げるために二転三転する形に変えたのか、なんであれ作為が入った結果として流れが不自然になったような印象です。上に引いた『城方本』ではその他の人々がやってきて上人を殴る際の道具として「ちぎり木」「さいぼう(撮棒)」が現れるのも独特です。

 

 他にも『平家物語』においては、平家滅亡後も生き延びていた越中次郎兵衛盛嗣の捕縛時にみね打ちが用いられます。

 


■『覚一本平家物語』 巻第第十二
・鎌倉殿御教書を下さりけり。「但馬国住人朝倉太郎大夫高清、平家の侍越中次郎兵衛盛嗣、当国に居住のよしきこしめす。めし進(まいら)せよ」と仰下さる。気比四郎は朝倉大夫が婿なりければ、よびよせて、いかがしてからめむずると儀するに、湯屋にてからむべし」とて、湯にいれて、したたかなるもの(強そうなもの)五六人おろしあはせて(浴室に入れて)からむとするに、とりつけばなげたおされ、をき(起き)あがればけたおさる(蹴り倒される)。互に身はぬれたり、とりもためず(とっておさえることもできない)、されども衆力に強力かなはぬ事なれば、二三十人ば(ツ)と寄(ツ)て、太刀のみね長刀のゑ(柄)にてうちなやしてからめとり、

 


 どんな剛の者も浴室で大勢にかかられては最終的に取り押えられるか討ち取られてしまうという、為朝や義朝などとも共通する捕縛の場面です。ここではみね打ちだけでなく薙刀の柄で「打ち萎やす」ことも捕縛に使用されています。なお、読み本系に分類される『延慶本』や『長門本』(※4)には盛嗣捕縛の件が書かれているにも関わらずこの峰打ち描写はありませんでした。参考までに。

 


 次は源義経を主人公とした『義経記』に移ります。扱う舞台は『平家物語』同様源平合戦の時代ですが、成立は室町時代頃と言われており、源平合戦期や鎌倉時代ではなく南北朝~室町期の戦闘様式や刀剣観が反映されていると考えたほうがよさそうです。

 

 以下は義経が鬼一法眼に弟子入りする際や弟子入り後のエピソードですが、こちら『義経記』に登場する鬼一法眼は後世の武芸関連文献において京八流などの祖とされる同名人物とはかなり印象が異なります。『義経記』の法眼は義経にとって是非とも内容を知りたい兵法書である『六韜』を秘蔵している陰陽師でしかなく、法眼への弟子入りもあくまでそれを読むための方便でしかありません。法眼は文武二道の達者と呼ばれるものの何らかの武芸を修めているということもなく、義経の命を奪おうとする際も用心棒代わりの弟子を刺客として差し向ける程度しかできない人物となっています。

 


■『義経記』巻第二 (※5)
・童申しけるは(童子が法眼に対して申し上げるには)、「この人(義経)の気色を見候ふに、主など持つべき人にてはよも候はじ。(中略)あつぱれこの人は、源氏の大将軍。(中略)御対面候はん時も、この人の言葉を放つて物など仰せられ候へばとて、悪し様なる御返事候ひて、持ち給へる太刀の背(みね)にて、一打も当てられさせ給ひて、それがし申さぬと仰せ候ふな」と、主を懇ろに教へて出だしける。法眼これを聞きて、「さては稀有の者ななれ。されば行きて対面せん」とて出で立つ。

 


 取り次いだ従者の童子が来客の義経を誰かに仕えているような人物ではないと見抜き、主の法眼に対し無礼な言い方をされたからと言って悪い返事をして太刀のみねで打たれ、私が申し上げなかったせいでそういう目に遭ったなどと後で仰らないようにと警告します。『義経記』が成立した当時の武士というのは、虫の居所が悪いと立場の低い者や下手に出ているものを刀の峰で叩いて打擲するような人々と考えられていたのでしょうか。

 

 そしてもう一つ法眼が義経のみね打ちの危険にさらされる場面があります。刺客として差し向けた東海坊湛海が義経を始末したと思い込み、経を読みながら独り言をする法眼の姿を、こっそりと戻って来た義経が目撃するところです。「あら憎げなる奴の面様かな(ああ何と憎らしいあいつの面つきよ)」というのはその時の顔を密かに覗き見ている義経の心境になります。

 


■『義経記』巻第二
・法眼は、法華経の二の巻を半巻ばかり読みてぞ居たりける。天井の方を見上げ、世間の無常をぞ観じける。「六韜兵法を読まんとて、一字をだに読まずして、今は湛海(妹婿で弟子でもある東海坊湛海を法眼は刺客として差し向けていた)が手にかかりたるらん、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と独言にぞ申しける。あら憎げなる奴の面様かな。追つかけて太刀の背(みね)にてはつて呉ればやと思召しけるが、女房の嘆かんも不便なれば、法眼が命をば助け給ひけり。

 


 義経は自分に刺客を差し向けて命を奪ったつもりで経を読む法眼の表情への憎らしさのあまり衝動的に追いかけてみねにて張る(打つ)ことに及ぼうとしますが、『六韜』を読むために利用した女房(法眼の娘)に免じて思いとどまることとしました。「法眼の命をば助け給ひけり」とあるように、当時からも命に関わることもあり得る攻撃とみなされていたようです。刃がついていなくとも鉄の棒で生身の身体を殴る訳ですから当然であり、まして物語中においても次のパートで説明するように義経のみね打ちは有名な豪傑さえも倒してしまう威力とされています。

 

 そして『六韜』の知識を得た義経にとってこの場所にはもはや用はなく、師弟関係を解消し山科へと去ります。結局最後の最後まで『義経記』の法眼は義経にとって倒す気になればいつでも倒せる程度の人物としての姿しか見せませんでした。このような鬼一法眼がなぜ後世においては義経の剣術の師匠となり、また京八流などの開祖とされるようになったのかはいずれ考えてみたいテーマです。

 

 鬼一法眼相手には義経はみね打ちに及ぶことはありませんでしたが、有名な義経と弁慶の戦いの場面においてはいよいよそれが炸裂します。

 


■『義経記』巻第三
・弁慶打ち外す所を、御曹司走り懸りて斬り給へば、弁慶が弓手の脇の下に太刀の切先を打ち込まれて、ひるむ所を太刀の背にて、散々に打つ。
 東枕(東向き)に打ち伏せて、上に上り居て、押へつつ、「さて従ふや否や」と仰せられければ、

 


 物語上、以降の義経の股肱の臣となる弁慶を死なせるわけにはいかないがかといって打ち倒さなければならないというこの場面において、命を奪わずに済ます峰打ちはまさにうってつけの手段と言えるでしょう。『平家物語』では太刀や薙刀を持ったりいくらか扱う場面はあるものの打物(白兵戦)の達人という訳ではない義経ですが、『義経記』においては「小太刀」とも評される小ぶりな太刀で湛海や弁慶と言った体格に勝る相手に余裕をもって勝つことが描かれており、こちらが成立した時代においては義経が相当な技量を持つ剣の使い手としてのイメージが形成されているのがわかります。

 

 『義経記』以外にも『平治物語』の最古態本とされる『学習院本』(※6)下巻の平治合戦後日談において義経の傑出した太刀遣いの力量がわずかながら描かれており、もしかするとほかにも鎌倉・室町の軍記などから情報を得られるかもしれません。その辺りの義経のイメージの変容も鬼一法眼の件などと合わせて調査中です。

 

 そして、この『義経記』の弁慶はその最後の「立ち往生」の場面でもみね打ちと縁があります。

 


■『義経記』巻第八
・弁慶は長刀の柄を長くや思ひけん、一尺ばかり踏み降りて、がばと捨て、長刀の真中取りて、「あはれなかなかよき物かな。えせ片人(あてにならない味方)のありつるは、足に紛れて悪かりつるにとて、木戸口に立ちて、敵の馳入りけるを、寄り合ひてははたと斬り、ふつと斬り、馬の太腹をがばと突き、敵の落つる所をば、内兜に長刀を突き入れて、首を刎ね落とし、背にて打ち、刃にて斬る。十方八方を斬りければ、武蔵坊に面を合はする者ぞなき。

 


 足手まといの味方などいないほうがいいと強気に孤軍奮闘する弁慶は、狭い場においては薙刀の柄が長く感じられたのか、多くの敵を相手に、薙刀の柄を一尺ばかり折って短くし、斬撃・突き・みね打ちと多彩な技で主君義経に迫る軍勢と渡り合います。ここでのみね打ちは、敵があまりに多いために刃を少しでも温存する意味か、刃を返すゆとりもなかったためなのかは不明。あるいは事実の反映ではなくあくまで物語なので「背にて打ち、刃にて斬る」とリズムを整えて書いてみただけということすらあり得るかもしれません。いずれにしてもこちらはそれまでと違って捕縛などを目的とするわけではないみね打ちが現れる貴重な場面です。

 


 ということで、今回はここまでとします。『平家物語』では基本的に警護の者や追手が捕縛対象の鎮静化を図るためでしたが、『義経記』においては武士が怒りに任せてみね打ちをしてくるようなイメージや特に相手の命を救う意図のなさそうなみね打ちも現れてくるなど、意外と多彩な使われ方をすることもわかりました。
 
 次回は戦国時代関連や武芸者のみね打ちを紹介します。


引用元・参考文献
1:高木市之助 小澤正夫 渥美かをる 金田一春彦・校注 『日本古典文学大系 平家物語』(岩波書店
2:北原保雄 小川栄一・編 『延慶本平家物語 本文篇上・下』(勉誠社
3:国民文庫刊行会・編 『平家物語 附 承久記』(国民文庫刊行会)
4:国書刊行会・編『平家物語 長門本』(国書刊行会
5:梶原正昭・校注 訳 『日本古典文学全集 義経記』(小学館
6:栃木孝惟 日下力 益田宗 久保田淳・校注『新日本古典文学大系 保元物語 平治物語 承久記』(岩波書店

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