東国剣記

東国の剣豪、武芸、中世軍記、そのほか日本の合戦諸々について扱うブログです。

【義経の指示した水夫への攻撃が壇ノ浦合戦の勝因とする幻想①】序論:否定された幻想

 

 日本史や歴史小説に興味のある方は、以下のように描かれる源義経のイメージや壇ノ浦合戦の展開を何がしかの形でご覧になったことがあるのではないでしょうか。

■小説 司馬遼太郎・著 『義経』(※1) 1968年単行本刊行 該当回の雑誌掲載は『オール讀物』67年10月号

・戦いの初動期において敵船の船頭や梶取に矢を集中してかれらを殺してしまえばどうか。かれらさえ殺せば敵船は進退をうしなう。進退をうしなったところでゆるゆると名ある者を狙撃する。卑怯だろうか。
「どうであろう」
 と、義経は水軍通の船所正利にきいた。正利はおどろいた。
「それは水軍の作法ではありませぬ」
 はげしくかぶりをふった。陸上の騎射戦においても敵の馬を射るのは不文律がある。なぜならば操船者の多くは駆りあつめの水夫や漁夫であり、戦闘者ではないからであった。(中略)
「そのことも自分は考えた」
 義経はいった。義経の欲求ではそういう美的拘束からはみだしたかった。
・このあとの源氏勢の行動は、ほとんど猟犬といっていいであろう。八百艘の船が潮に乗り、さらに櫓を漕ぎ、間断なく矢を射つつ、まっしぐらにそれらの目標にむかって進みはじめた。
 それをふせごうとして立ちふさがる平家船は、ことごとく船頭、梶取、櫓漕ぎが射殺され、運動能力をうしなって波に漂った。
 
■戯曲 木下順二・著 『子午線の祀り』 1977年12月発表(※2)
義経:ここまで抑えに抑えて来たが、もう堪忍袋の緒が切れた。三郎、四郎兵衛、最後の手だ。敵の水主楫取ども、片端から射伏せ斬り伏せろと触れて回れ!
正利:なに? それはなりません判官殿!戦さの法にそむきます!
義経:五郎がいいぶんはさんざん聞いた。海の戦さに戦さ人ではない水主楫取を殺すという法はないと、くどいがまでに聞かされた。
正利:戦さ始めの矢合わせも戦さの法なら、打ち物持たずただ船を漕ぐのみの白衣の者どもを決して殺さぬとするのも戦さの法です。おやめ下さい!
義経:そう聞かされたゆえ、全軍に下知してそのこと今まで控えさせて来た。が、もう構わぬ。天と地を覆そうこの期に及んで法も掟もあるものか!いいや、これこそが義経の戦法だ!行け三郎!
(中略)
重能:九郎判官殿、潮の変り目を狙っておったと見えます、いきなり水夫楫取を射伏せ斬り伏せる戦法に出ました。
知盛:卑怯とも人非人とも、戦さの法を踏みしだいた判官めが!


 これら作品に現れる義経像は勝利のために手段を選ばない悪役のような印象も受けますが、反面「不合理な美意識や禁忌に囚われている中世の人々」を尻目に勝利への最適解を得て秩序をひっくり返して行く、反道徳的で非情ではあるが力強く「時代の制約」を超えて行く異能の人のようにも見える描かれ方であり、それら作品の発表から約40年、50年と経った今でも鮮烈な印象を与えます。まして判官贔屓の対象としてのお馴染みのありきたりな英雄義経像に慣れ切っていたであろう1960年代、70年代という発表当時のほとんどの人々からは、まさにハンマーで殴られたような衝撃をもって迎えられたことでしょう。

 

 しかも「時代の常識」から甚だしく乖離した戦さに対する不吉なほどの異能者ぶりは、それまでのどちらかといえば道徳的な悲運の英雄像とは異なるように見えながらも、なぜ義経が次々と平家相手の大合戦に勝利し得たかという史実に対する答えであり、また結局彼がなぜ壇ノ浦合戦勝利後に没落して兄から攻め滅ぼされる運命を辿るのかの暗示でもあり、むしろそれ以前の義経像よりもリアリティさえ感じさせるわけですから見事です。

 

 そして以降の時代において、こういったセンセーショナルな義経像は以下のような本にも引かれ、ますます広まりを見せていることがわかります。


井沢元彦・著 『逆説の日本史 5中世動乱編 源氏勝利の奇蹟の謎』(※3)
・陸戦それも騎兵による奇襲攻撃を得意とする義経が、いかに熊野水軍や伊予水軍が味方についたとはいえ、畑違いの海戦になぜ勝つことができたのか。
 義経の作戦とは、平家船は水手・梶取を射殺すというものだった。
 つまり船の操縦者を殺すことによって、敵の兵船を行動不能にしたのである。
 何だ、そんなことか、と思う人もいるかもしれない。そんなこと当たり前じゃないか、と言う人もいるかもしれない。
 確かに近代戦においては、戦艦の操舵手や爆撃機の操縦士は戦闘員である。つまり戦争状態に入ったら、殺してもかまわない。
 ところが、この時代には彼等は非戦闘員の扱いであった。殺してはいけない、殺すことはルール違反なのである。
いや、ルール違反というより、彼等が戦闘員であるとは、誰も思っていなかったと考えた方がいいかもしれない。(中略)。
 ところが義経だけがその常識を踏みにじった。
 彼等によって船は動いている。だから彼等を殺せば船の動きは止まる――まさに「コロンブスの卵」だが、義経だけがそれに気付き実行した。
 天才とは「コロンブスの卵」を産み出す者なのである。
 これも敵の意表を衝く、一種の奇襲戦法といっていいかもしれない。 


 しかしながら、このような水夫攻撃が壇ノ浦合戦の勝因か決定打になった、そしてそれが義経が直接指示した戦術であり、当時としては考えられない奇襲戦法・合戦のルール無視であったという話については研究者からは疑問も出され、現在では以下のように根拠がないものとして扱われています。


■延慶本注釈の会・編 『延慶本平家物語全注釈 第六本(巻十一)』(※4)
・金指正三は、「船舶の構造上、無防備のところにいた漕手をまず倒して、船の機動力を失わせ、戦列の混乱に乗じて攻撃した一種の奇襲戦法」を、源氏の勝因と想定する。しかし、水夫への攻撃は『平家物語』諸本のみに見えるが、『平家物語』諸本では、これは成良の返忠(引用者注:寝返り)などによって源氏が圧倒的優勢になった結果であり、源氏勝利の原因として描かれているわけではない。さらに、「射伏ラレ切伏ラレテ」とはあるものの、前項注解に見たように、<延(引用者注:『延慶本』)・盛(同:『盛衰記』)・四(同:『四部合戦状本』)・覚(同:『覚一本』)>では、源氏の軍兵が平家の船に乗り移って水夫・梶取を殺害したとする。従って、「漕手をまず倒した」という想定自体、根拠のないものである。なお、海戦において、非戦闘員である水夫を攻撃しないというルールが存在したかどうかについては未詳。
 

早川厚一 佐伯真一 生形貴重・校注 『四部合戦状本平家物語全釈 巻十一』(※5)
・その叙述は微妙だが、「射ふせ切ふせければ」とあるように、矢による攻撃と白兵戦の両方による被害である。金指正三は、「平氏軍の兵船の梶取・水主を専ら射殺」した「奇襲戦法」を、源氏の勝因とする。しかし、『平家物語』諸本の記事構成に従う限り、源氏の水手への攻撃は、成良の裏切りによって大勢が決した結果として生じたことである。諸本とも、この攻撃によって源氏が勝利したと語るわけではなく、成良の裏切りによって兵船が攻撃され、その結果として水手が殺されたという展開なのである。それを源氏の勝因とするのは恣意的な読解と言わざるを得ないし、『平家物語』以外に水手への攻撃を記す史料は無い。また、それが「奇襲戦法」であったとする点も、確証を欠き、想像の域を出ない。そもそも、源氏の勝因を義経の戦術に求めるという発想自体が、前節の注解「精兵の手聞を調へて射さすれば…」に見た黒板勝美の潮流説の枠組に規制されたものと言うべきだろう。『平家物語』諸本を虚心に読む限り、源氏の基本的な勝因は、まず多数の味方を確保して開戦前から優勢を築いたことであり、次に、そうした力関係によって、開戦後、平家陣営の内部崩壊をもたらしたことである。義経の特殊な戦術が無ければ源氏が勝てなかったかのように考えること自体が、この合戦の現実から遊離したものであろう。(引用者注:本文中の明らかな脱字は一字補いました)

 

 

■近藤好和・著 『源義経 ――後代の佳名を貽す者か――』(※6)
・そこで、義経は水手や梶取をまず殺して、船の自由を奪い、船内に乱入した。それが平氏の敗因になったという。
 しかし、この作戦は、当時の船の構造を考えれば、義経でなくても誰でも思い付く作戦であろうし、その程度のことが義経の戦略とも考えられない。確かに延慶本・覚一本ともに、源氏が平氏の水主・梶取を殺したことが記されている。しかし、それはいずれも、阿波重能の裏切りによって、平氏の敗戦が色濃くなってからのことである。しかも、それは平氏の兵船に乗り込んだ源氏の武士達の判断で行ったことであり、義経が指示したとは記されていない。平氏の敗因を水主・梶取を殺したことに求める説は、黒板の潮流説以上に説得力がない説といえよう。


 だいたいポイントは以下の通りでしょうか。

 

・水夫への攻撃は壇ノ浦合戦に関する諸史料の中で『平家物語』諸本のみに見られる
・それは阿波重能(成良)という人物の裏切りによって源氏側が圧倒的優勢を得て合戦の大勢が決した結果として行われた。つまりその件に関する唯一の出典である『平家物語』においても水夫への攻撃が壇ノ浦合戦の勝因ではない。
・水手をまず倒したという件にも根拠がない。
・こういった説は『平家物語』の恣意的な読解によって成立している。
・『平家物語』における水夫への攻撃は、「射ふせ切ふせければ」というように矢と白兵戦両方によって行われている。
・海戦において水夫を攻撃しないというルールについては存在が確認されていない。それを狙うことが「奇襲戦法」であるという根拠もなく、想像の域の話である。
・水夫攻撃の唯一の出典である『平家物語』には、それが義経の指示であるとは記されていない。

 

 上記の通りであればほとんど説が成立する余地がないということになります。しかしそうであるとすればなぜこの説がこれほどまでに広まり、大きな影響を持つに至ったのでしょうか。

 

 そこでこの【義経の指示した水夫への攻撃が壇ノ浦合戦の勝因とする幻想】と題したシリーズでは、実際に上記のように根拠がないかどうか、まず同時代史料・鎌倉時代に成立した史書や編纂史料・『平家物語』諸本等から逐一確認していき、次になぜこの説が生まれ、そして広まっていったかということを戦前・戦後の研究者の著作・論文などから見て行きます。

 

 予定としては②(第2回)において貴族の日記や同時代人の認識が伺える著作、鎌倉時代史書や編纂史料などから水夫攻撃に関する情報が本当にないのか確認し、③においては『平家物語』の数多い異本から壇ノ浦合戦のパートを引き、水夫攻撃がどのタイミングでどのように行われたかなどを中心に見ることとします。④・⑤においては上記批判にも名前が登場している黒板勝美氏・金指正三氏そして他のキーマンとなる人物らについて取り上げ、戦前・戦後の説の展開を見て行きます。
 
 序論に続く②・③は特に史料からの引用の羅列による確認作業が中心となりますが、地道な確認検証を楽しめる人はしばらくお付き合い下さい。面倒だという方は④以降まで待っていただくか、前述のようにこういった説は現在においては厳密にテキストを読む研究者達から根拠のないものとして否定されているということを記憶して帰っていただければ幸いと思います。


 なお、冒頭においてわかりやすい具体例として小説・戯曲を引き合いに出しましたが、そのようなフィクションのエンターテインメント作品は基本的に読者・視聴者・観客といった受け手を楽しませることが最大の目的であるわけですから、それにどのような義経のイメージやストーリー展開が現れようが私は批判の対象とはしません。むしろ、いくら鮮やかに見えるとは言っても『子午線の祀り』からはもう44年、司馬氏の『義経』からは54・5年も経つほどには古びてきている義経像をいつまでも新時代の解釈のように扱っているのもいかがなものかと思いますし、それを越える21世紀のフィクション義経像に期待する者でもあります。

 序論は以上です。

 

続き:

tougoku-kenki.hatenablog.com

 

引用元・参考文献
1:司馬遼太郎・著 『義経』(文芸春秋
2:木下順二・著 『子午線の祀り・沖縄 他一篇 木下順二戯曲選Ⅳ』(岩波書店
3:井沢元彦・著 『逆説の日本史 5中世動乱編 源氏勝利の奇蹟の謎』(小学館
4:延慶本注釈の会・編 『延慶本平家物語全注釈 第六本(巻十一)』(汲古書院
5:早川厚一 佐伯真一 生形貴重・校注 『四部合戦状本平家物語全釈 巻十一』(和泉書院
6:近藤好和・著 『源義経 ――後代の佳名を貽す者か――』(ミネルヴァ書房

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