東国剣記

東国の剣豪、武芸、中世軍記、そのほか日本の合戦諸々について扱うブログです。

【みね打ち②】戦国武士・剣豪・居合の達人によるみね打ちの逸話

 前回はみね打ち(棟打ち)が古態を多く残すとされる『延慶本』を含む『平家物語』諸本や『義経記』などに見られるように、意外と古くから知られる攻撃手段であったことをお話しました。今回は近世文献に登場する戦国武士や武芸者たちによるみね打ちの話題を扱います。

 まずは旧ブログにおいて塚原卜伝関連でたびたび使用したことで自分にとってもなじみ深く、また近年価値が見直されてきている『甲陽軍鑑』からです。


■『甲陽軍鑑』品第卅一「浄土宗法花宗論 付於勝間迫合之事」(※1)
・然処に、近藤と申牢人名乗て、原美濃守近所へ刀をぬき持てのりよる。原美濃守刀をぬきはづし、みねうちに近藤が甲のしころのはづれ首の骨をたたき、馬よりたたきおとし候へば、原美濃に乗つづきたる相模武者、近藤が首をとらんとする。原美濃、甲州にて我等方に出入たる者にて候。ゆるしてくれられよと云て、引とらるる。原美濃を、北条家、武田の家、今川家(の人々)各ほめざるはなし。


 武田家中で浄土宗と法華宗の争論問題があった際に法華宗の寺に参詣したことが法度に背いたとされた原美濃守が、一時武田を出奔して北条家中にいた時期に起きた梶間合戦の一場面となります。向かってきた近藤という浪人が武田時代に自分達に縁があった者であるため、美濃守は互いに馬上での斬り合いの際に相手の兜のしころの端の部分から首の骨を狙うという形でみね打ちを行い落馬させ、また即座に他の北条側の者にも事情を説明して助命をしたところ、その振る舞いが北条・武田・今川の各家中で褒めない者はいなかったほどに賞賛されたというエピソードです。

 この原美濃守は『甲陽軍鑑』と関係すると考えられる『武具要説』においても、以下のように塚原卜伝脇差の逸話を紹介し、卜伝を名人と呼ぶその支持者であることを伺わせます。


■『武具要説』(※2)
「脇指之事 原美濃守申分」
塚原卜伝が壱尺四五寸の脇差を片手に持て居るを三尺程の刀を以て打に。其脇差少も働(動)かず。落る事なきを諸人奇特と申せども。卜伝何の用にも立事にあらずと申候。卜伝ほどの者がうたねばこそ。此脇指を打落し得ず。衆愚諤々不如一賢の唯々とて。卜伝は一向に左様の義不要と承及申候。かやうの名人が片手にて名誉をしたるなどとて。是をまぬるは鵜のまねする烏にひとしく候。


 そして『天真正伝新当流兵法伝脈伝脈』においては以下のように卜伝の弟子として数えられています。


■『天真正伝新当流兵法伝脈』(※3)
甲州に到り、武田家並に其臣原美濃守、横田・秋山・山県、山本時(原文ママ)幸入道々鬼等に大伝を授く。猶卜伝が説を聞て規範とす。


 名高い武将であり武芸の達者でもあったから、戦場においても余裕をもってみね打ちで旧知の武士の命も助けることができたという逸話でしょうか。


 次は筑後柳川藩初代藩主であり、名将と称えられる立花宗茂(1569-1642)の一代記『立斎旧聞記』です。元禄2年(1689年)と宗茂死後50年以内での成立なので、生前の宗茂と接したことがある人々もまだ存命であった時期ではありますが、それでも明確な誤りが散見されるようで、史実ばかりが書かれているとは考えない方がいいかもしれません。特に今回引く宗茂12歳の頃のエピソードというのは『立斎旧聞記』成立を遡ること100年以上昔のこととなります。

 ただしその一方で宗茂晩年の島原の乱の際の「立花家中手負討死之覚」というリストが下巻に載るなど史実の参考になりそうなパートも存在しており、こちらはいずれ石傷の話題で引くことになると思います。以下、『立斎旧聞記』原文の片仮名文を読みやすさ優先で平仮名文として引用します。


■『立斎旧聞記』(上)(※4)
・一 十二歳の時、小鷹をすえ玉ひ(給ひ)、同じ年比の童を餘多召つれられて出て遊び給し時、狂狗吼かかりければ、供にありける童ども恐駭て逃走る、統虎公は少も騒不給(さわぎたまはず)通給ひしに、彼狂狗犬にいかつて走かかるを、飛ちがえ、刀を抜てむね(棟)打にしたたかに打給へば、狗は恐て逃去ぬ、頓て(やがて)刀を鞘に収て通り玉ふ、


 鷹狩りで外出した際、お供の同年代の少年たちは吠えかかって来た狂犬に恐れおののいて逃げてしまったにも関わらず、後の立花宗茂となる十二歳の高橋統虎少年は、一人犬に向かい、飛び違いざまに抜刀し棟打ち(みね打ち)を行って犬を撃退してのけたという逸話です。報告を受けた父の紹運は刀を抜いたのならばなぜ犬を斬らなかったのかと問いますが、


・紹運公是を聞召て、統虎にの玉ふ(のたまふ)は、汝刀を抜て防く程ならば、何ぞ不斬やと宣へば、統虎公打笑て、太刀刀にては敵をこそ斬候べけれ、狗猫などを斬とは承はらぬ物をと宣へば、紹運公涙を浮べ、最器量に見えたり、才智逞して普通にあらず、成人の後其才を誇ることなかれ、と教え給ひけり、


それに対し「太刀や刀は敵を斬るものであって犬猫などを斬るものではありません」と統虎少年は大人の武士のように答えます。未来の名将を予見させる胆力と才智に現在の名将である父・紹運は涙を浮かべ喜び器量を称賛しながらも、成人の後その才を誇るようなことをしてはいけないと釘も刺すことも忘れません。

 統虎少年が武士らしい大義名分に優しい心根を隠してむやみに犬の命を取らなかったという実話であったかもしれませんし、この件自体が事実ではないにしても宗茂が少年の頃から器量抜群であり、むやみに命を奪わない人物だったというイメージが反映された逸話と見るべきかもしれません。あるいは邪推するならば『立斎旧聞記』の成立した元禄年間はいわゆる「生類憐みの令」の時代なので、その動物愛護の時流を反映させた藩祖顕彰の逸話という可能性もあり得るかと思います。

 なお、このように刀剣で斬る相手は選ぶべきであり不相応な格下を斬ると汚れるという観念は、室町時代成立と目される『悪源太』という謡曲にも、


■『悪源太』(※5)
・シテ「義平が手並みをば。 
 地「保元平治両度の合戦に。兼ねても見も聞きつらん。汝等に向かっては。打物よごしと思へども。時の敵は力なしとて。


と「打物よごし」なる言い回しで現れるなど、中世には既に存在していたこともわかります。以前の記事で取り上げた江戸時代尾張藩の『昔咄』にも、


■『昔咄』(※6)
刀よごしぞ、命は助くるぞとて帰りし、


など同様の観念を伺うことができます。今回の逸話の理由(建前?)のようにこういった事情でみね打ちが選択されるケースも中世~近世にはありそうです。


 では、ここからは武芸関連文献のみね打ちを紹介しましょう。まずはタイ捨流の開祖・丸目蔵人の各地での試合を記録したという『徹斎於諸国仕合之覚』からです。


■『徹斎於諸国仕合之覚』(※7)
・一 豊後にて鎌仕(鎌使い)の名人あり。斎老(引用者注:丸目徹斎=丸目蔵人のこと)之に至り仕合を望む。鎌仕、真剣にて為すべしと云ふ。斎老弟子之を望む。斎老云く、自身に仕合すべしと云い、太刀を抜かず鞘ながら打ち(鞘に納めたまま打ち)鎌にて懸候へば、さや抜候。刀のむねにて打たをし申され候。これ微事にて記さず、有之候え共、「大友興廃記」にもある故、之を記す由也。


 真剣勝負を望む豊後の鎌使いに対し弟子に替わって徹斎自身が立ち会うことになりますが、鞘から抜刀しないままにして打ちかけることで刀を鎌で引っ掛ける攻撃を防ぎつつ鞘を外し、そのままみね打ちで打ち倒すという形で勝負を終わらせます。相手は鎌使いとのことですが、以下のように、


■『尾府 御家中武芸はしり廻』(※8)
・只、土民の器と残しめども、鎌術は神速にして異変を働く心得なくては敵に取て甚仕難き者也。鎌の柄に長短ありて流意も又別々也。宝蔵院にては鎌鑓と云。大草直心の伝にては鍼(原文ママ、鎖かと思われる)鎌として御家中、青木芸多治より大原平兵衛に伝へ、(中略)。鎌は土民の器成とて必(ず)可捨(すつるべき)事にもあらざる事。


武芸における「鎌」には鎌柄の短いもの長いもの、鎖鎌、さらには鎌槍の類さえも含められることがあるようで、徹斎と戦った豊後の鎌使いがどのような鎌を使う相手かは『徹斎於諸国仕合之覚』だけでは情報量があまりに少なく不明というほかはありません。機会があれば参考にされたという『大友興廃記』の該当箇所にも何か手掛かりがないか確認したいものです。

 個人的には鎌使いを相手にまず鞘のまま打ち掛かるというのは、鎖鎌が相手だったため鎖分銅が巻き付くことを見越してのことという理由を想像したくもなったのですが、特に鎖分銅等の記述もないので鎌部分に引っ掛けさせたと素直に見た方がひとまず無難でしょう。

 いずれにしても鎌は上記『御家中武芸はしり廻』において「神速にして異変を働く心得なくては敵に取て甚仕難き者也」「鎌は土民の器成とて必可捨事にもあらざる事」と評されるような侮ることのできない相手であり、そういった敵との本身の得物による命を賭けた試合を刀の棟で打って殺さずに制したという辺りは丸目徹斎がさすがの力量を見せた形です。

 他にも武芸者のみね打ちとしては『尾陽武芸師家旧話』のものがあります。こちらは津金覚左衛門という居合・抜刀の達人によるものです。


■『尾陽武芸師家旧話』(※8)
・一 津金覚左衛門は後に理兵衛と改む。幼少より武芸を好み、猪谷唯四郎に従ひ制剛流の許可を得たり。後に制剛流居合・浦部流抜打を指南す。或時宮崎睡鷗と殺生に行しが、覚左衛門或侍と口論に及ぶ。例の事故(ことゆえ)宮崎は先へ行、待合せしに暫く過て追付たり。宮崎が曰、「何か今日は手間取られし」と云。覚左衛門曰く、「けふの士は抜合候故少々手間取候へ共漸(ようやく)棟打に致候。うろたへ士め」と申候由。誠に大胆不敵也。


 文中の「殺生に行く」とは一見殺伐とした字面なので解説しておきますが、同じ尾張藩の『鸚鵡籠中記』を参考にするならば、

 

■『鸚鵡籠中記』(※9)
・(宝永3)九月二日、予、金谷坊池へ殺生に行く 

・九月十七日、殺生に行く。地蔵池にて網し、未(ひつじ)前に皈り(かえり)、また金谷坊池へ行く

 

というような魚獲りや恐らく狩りなども含む趣味と実益を兼ねたレジャーの類であると考えられます。「例の事故(ことゆえ)」という記述を見る限り、宮崎睡鷗にとって覚左衛門の喧嘩はいつものことだったようです。追いついてきた覚左衛門に対し「何か今日は手間取られし」などと慣れた感じで問いかけたところ、覚左衛門は少々手間取りながらも棟打ちで倒してきたとのことでした。

 この二人は制剛流・猪谷唯四郎門下の単なる同門弟子というだけでなく、何かにつけて喧嘩をする覚左衛門の人格を睡鷗が承知で付き合うウマの合う友人関係だったようで、以下の睡鷗の項でもやはり「殺生」での道すがらにおける覚左衛門のみね打ちと、その後の二人での集団を相手取った大喧嘩の記述が見られます。


■『尾陽武芸師家旧話』
・一 宮崎只右衛門重職 睡鷗と云 猪谷唯四郎に従ひ、制剛流柔・静流長刀等の許可をとる。又野田善十郎に随ひ、上泉流の許可を得て師範せり。或時津金覚左衛門と両人西在へ殺生しに行しに、砂子にて馬士(馬子)ども二三人乗打せしかば(武士である自分たちと行違う際に下馬をしなかったので)、覚左衛門行違ひざまに棟打に打、馬士共はうはう逃行しが、


 やはり「殺生」に向かう途中で行き会った馬子たちが武士身分の二人の前で下馬しないという非礼を行ったので覚左衛門はすれ違い様にみね打ちをしたという、身分社会特有のトラブルです。これに対して帰り道で村の百姓たちが復讐のため集団で待ち構えておりましたが、


・覚左衛門早速抜合せ、例の早業に五六人打倒す、宮崎元より名人の達者なれば、力かぎり投出すほどに、目叩く(またたく)内に八九人も川中へ投込しかば、残る者共我先にと逃散たり。


と、覚左衛門は剣で、睡鷗は投げでたちまち蹴散らしてしまいます。睡鷗は水に投げ込むという程度に済ませており、覚左衛門の方も「切倒す」等ではなく「例の早業」で「打倒す」とされている辺り、こちらも先ほどと同じようにみね打ちで制圧したように思われます。睡鷗の言葉や対応を見る限りどうも覚左衛門は日常的に喧嘩をしていた人物のようなので、みね打ちの多用も刃傷沙汰ではない喧嘩の範囲に済ませたい意識から行っていたのではないでしょうか。


 以上、戦国武士や剣術・居合の達人が相手を斬らずみね打ちで済ませるという時代劇のような描写は、近世文献にも存在しておりました。刀のみね(棟)は構造上の弱点とも言われますが、前回・今回の事例で見られたように人または動物の生身の肉体を打つ分にはそれほど問題なく使え、どうしても命を奪わず済ませたい、弱らせて生け捕りにしたい、刃傷沙汰にならない程度で済ませたい、打物(刀)よごしを避けたいなどの状況で使われたことは十分考えられそうです。

 前回は『平家物語』・『義経記』、今回は『甲陽軍鑑』・『群書類従』・『日本武道全集』とどれも自分にとっては比較的参照しやすいところから見つけてきたものばかりなので、いずれ傾向の違う文献からもみね打ちの逸話を探したいと思います。


引用元・参考文献
1:磯貝正義 服部治則・校注 『改訂甲陽軍鑑(中)』(新人物往来社
2:塙保己一・編 『群書類従 第23輯』(続群書類従完成会
3:今村嘉雄・編 『日本武道全集第二巻』(人物往来社
4:塙保己一・編 『続々群書類従 4』(続群書類従完成会
5:大和田建樹・著 『謡曲評釈 第7輯』(博文館)
6:近松彦之進・編 『昔咄 : 抄録 慶勝公履歴附録』(国史研究会)
7:今村嘉雄・編 『日本武道全集第一巻』(人物往来社
8:今村嘉雄・編 『日本武道全集第七巻』(人物往来社
9:神坂次郎・著 『元禄御畳奉行の日記』(中央公論社

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村