東国剣記

東国の剣豪、武芸、中世軍記、そのほか日本の合戦諸々について扱うブログです。

【義経の指示した水夫への攻撃が壇ノ浦合戦の勝因とする幻想②】日記・史書・同時代文書などに壇ノ浦合戦の水夫攻撃の記述がないことを確認

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 前回お話したように壇ノ浦合戦の源氏方による水夫への攻撃は、


■『延慶本平家物語全注釈 第六本』(※1)
・水夫への攻撃は『平家物語』諸本のみに見えるが
■『四部合戦状本平家物語全釈 巻十一』(※2)
・『平家物語』以外に水手への攻撃を記す史料は無い。


と『平家物語』以外には見られないことを研究者によって断言されておりますが、実際にそうであることを自分でも確認しておきたいので、今回は壇ノ浦合戦の研究に用いられる諸史料から見ていきたいと思います。


 まず、その史料の選定ですが、以下のような参考文献で壇ノ浦合戦に関して活用されている、信用に足る文献・基本史料とされるものから確認することとしました。ただし、序論に引いた司馬遼太郎氏の小説『義経』(壇ノ浦合戦のパートは67年雑誌掲載)に見られるように60年代中期辺りには成立していたと考えられる説なので、それ以降に発見されたと思われる史料については、説の成立に関与しないものとして今回は積極的には採りません。


■『人物叢書 義経』(※3)
・そういうわけで、両者(引用者注:『吾妻鏡』と九条兼実の日記『玉葉』)を主として引用してそれによる義経の一生をみていきたいと思う。なおその他の信用できる文献、『愚管抄』(兼実の弟慈円の史論)・『山槐記』(内大臣藤原忠親の日記)・『吉記』(大納言藤原経房の日記)・『百錬抄』(鎌倉後期成立の史書)などに散見されるところもできるだけ採り入れたい。ただし物語の類はここでは一切取り上げないことにする。

■『戦争の日本史6 源平の争乱』(※4)
・この(引用者注:『平家物語』諸本)他の基本史料としては、鎌倉幕府が編纂した史書である『吾妻鏡』や公家側の編纂史書百錬抄』、慈円の著した史論書『愚管抄』、公家日記である九条兼実の『玉葉』、中山忠親の『山槐記』、吉田経房の『吉記』などの史料があげられる。この中で公家の日記は、源平の争乱が都の政治過程と連動して推移したために、合戦や軍勢の動きに関する情報が不断に都に集められた結果、リアルタイムの情報を多く含むようになった点で誠に有益である。ただし、個人の日記である以上、デマ・聞き間違い・思い込みにより事実と異なる話が見られることには、十分な注意が必要である。
 また、歴史学の基本的史料として最も重視されるのは文書であるが、源平の争乱に関係する編纂物に引用されたものを除くと、実はその数は極めて少ない。


 ということで、上記の基準を参考に『平家物語』以外の壇ノ浦合戦関連史料を見ていきます。まずは源平合戦(治承・寿永合戦)の研究において一次史料とされる同時代の貴族の日記について調べましょう。九条兼実の『玉葉』、吉田経房『吉記』、中山忠親山槐記』が源平合戦義経を知るための根本史料とされておりますが、他にも同時代を生きた貴族が記した日記としては藤原定家『明月記』、三条実房『愚昧記』がありますので、これらからも壇ノ浦合戦の情報の有無を確認しました。


■『玉葉』(※5)
壇ノ浦合戦の起きた元暦二年三月の記事あり
■『吉記』(※6)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1236618/77
壇ノ浦合戦の起きた元暦二年三月の記事なし(欠け)
■『山槐記』(※7)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/949546/117
・元暦二年三月の記事なし(欠け)
■『明月記』(※8)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991253/12
・元暦二年の記事なし(欠け)
■『愚昧記』(※9)
・元暦二年の記事なし(欠け)


 実際に確認してみるとほとんどの日記でこの時期のパートが失われており、壇ノ浦合戦に関して使えるのは『玉葉』のみとなりました。その『玉葉』本文を見てみましょう。


■『玉葉
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920220/41
・(三月)廿七日、庚戌天晴、(中略)、伝聞、平家於長門国被伐了、九郎之功云々、実否未聞、
・廿八日、辛亥(中略)、又云、平氏被伐了由、此間風聞、是佐佐木三郎ト申武士説云々、然而義経未進飛脚、不審尚残云々、
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920220/42
・(四月)四日、丁巳雨下、早旦人云、於長門国、誅伐平氏等了云々、
(中略)院宣云、追討大将軍義経、去夜進飛脚(相-副札)申云、去三月廿四日午刻、於長門国団合戦、(於海上合戦云々)、自午正至晡時、云伐取之者、云生取之輩、不知其数、此中、前内大臣、右衛門督清宗、(内府子也)、平大納言忠、全真僧都等為生虜云々、又宝物等御座之由、同書

 

 3月27日の噂程度の情報に始まり、28日にも佐佐木三郎なる武士からの話としての平家敗北の件を記すなどやはり都の貴族にとっても最大の関心ごとであったことがわかります。しかしながら本命となる4月4日分でも追討大将軍義経の飛脚から得られた報告も、平家の滅亡や生捕りにされた面々の報告がほとんどであり、義経の指揮や戦いぶりなどは一切記されておりませんでした。

 

 次は鎌倉時代末期の編纂史料『百錬抄』を見てみましょう。こちらについては以下のような評価があり、同時代ではないものの貴重な情報も含まれていそうです。


■『源義経の合戦と戦略――その伝説と実像』(※10)
・『百錬抄』は安和元(九六八)年~正元元(一二五九)年の間の編年の歴史書であり、編者は不明であるが、その記事内容からして、京都の貴族の日記などが資料に用いられているらしく、同書にしかない貴重な記述が多く含まれる。


 では壇ノ浦合戦に関して『百錬抄』本文を確認します。


■『百錬抄』第十 後鳥羽院(文治:文治元年=元暦二年)(※11)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991104/83
〇三月廿四日丁未。於長門門司関。為源軍平氏悉被責落了。前帝外祖母二品奉抱幼主没海中。内大臣(宗盛)父子。平大納言時忠卿父子。前内蔵頭信基等生虜也。女房建礼門院已下存命云々。
〇四月四日丁巳。広瀬龍田祭也。今日。追討平氏之由言上。去三月廿四日於長門門司関合戦。前内大臣宗盛已下多生虜之云々。


 壇ノ浦の記述はありましたが、当日のものは日付・戦場・源氏の勝利であることはごくシンプルに記述され、入水や生捕りとなった人々について言葉を割かれています。『玉葉』と同じく四月四日に正式な報告が入った記事もありますが情報量はやはり多くはありません。貴族の日記を元にしているという説があるだけに関心事項や書かれている情報も『玉葉』と似ている感じで、同じように合戦で行われた特殊な作戦などが記される余地はありませんでした。

 

 次に、承久の乱以降の成立とされますが、この源平合戦の時代を生きた天台座主であり『玉葉』の九条兼実の弟でもある慈円の史論書『愚管抄』はどうでしょうか。以下、引用元では片仮名となっているところをわかりやすさ重視のため平仮名に改めてあります。


■『愚管抄』巻五(※11)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991104/274
・元暦二年三月廿四日に船いくさの支度にて。いよいよかくと聞て頼朝が武士等かさなり来りて西国にをもむきて。長門の門司関だんの浦と云ふ所にて船いくさして。主上をばむばの二位(宗盛母)いだきまいらせて。神璽宝剣とり具して海に入りにけり。ゆゆしかりける女房也。内大臣宗盛以下数を尽くして入海してける程に。宗盛は水練をする者にてうきあがりうきあがりしていかんと思ふ心つきにけり。さて生どりにせられぬ。主上の母后建礼門院をば海よりとりあげて。とかくしていけ奉りてけり。神璽内侍所は同き四月廿五日にかへりいらせ給にけり。宝剣は海にしづみぬ。


 合戦の準備をした鎌倉方の武士たちが長門の壇ノ浦に赴くことと、合戦が行われたこと、そして例によってという感じで入水・生け捕りになった人々や神器への話題となります。義経に関する特別な言及はありません。しかしこの『愚管抄』では一ノ谷合戦はというと、

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991104/273
・同寿永三年二月六日やがて此頼朝が郎従等押かけて行むかいてけり。それも一の谷と云ふ方にからめ手にて九郎は義経とぞ云し。後の京極殿の名にかよひたれば後には義顕とかえさせられにき。この九郎その一の谷より打入て。平家の家の子東大寺やきし大将軍重衡生どりにして。其外十人ばかりその日打取てけり。


「それも一の谷と云ふ方にからめ手にて九郎は義経とぞ云し」「この九郎その一の谷より打入て」というように繰り返しその名を挙げて九郎義経の武功を特筆しており、壇ノ浦の時とは異なり明らかに義経にフォーカスした書かれ方です。そのように関心を持って義経を見ることのあった慈円ですら、壇ノ浦については特に彼の奇策による勝利という情報は持っていなかったということになります


 今度は鎌倉幕府編纂の正史『吾妻鏡』です。こちらも以下のような特徴と注意点があります。


■『源義経 ――後代の佳名を貽す者か――』(※12)
・ついで信頼できるのが、鎌倉幕府の公式記録となっている『吾妻鏡』である。しかし、『吾妻鏡』は、様々な原史料をもとに鎌倉末期に編纂された文献である。こうした編纂史料の場合、原史料それぞれの信頼性が均一でないことが多く、また、編纂者の意図によって史実が潤色されたり、歪曲や改変されることもある。『吾妻鏡』の記述も、信頼できる部分と疑わしい部分があり、明らかな錯簡などもある。しかも頼朝の死後、幕府の実質的な支配者となった北条氏の意図によって編纂されたことを考慮する必要がある。したがって、『吾妻鏡』の記述を全面的に信頼するのは危険である。しかしながら、義経を考えるためには、『吾妻鏡』に頼らざるを得ないのも事実であり、古記録と同等に利用できる史料である。


 このように同時代ではないという点では『百錬抄』で同様である他、幕府編纂という都合上ある種のバイアスも想定されますが、源平合戦関連を詳しく知ることができる史料自体が少ないので使わざるを得ないという事情もあります。という訳で『吾妻鏡』本文を見ていきますが、以下『新版 全譯 吾妻鏡』からの引用なので原文通りの漢文ではなく書き下しとなっております。合戦数日前に当日の決戦に繋がる準備が見られるのでそこからとしましょう。


■『吾妻鏡』元暦二年三月(※13)
・廿一日 甲辰 甚雨。廷尉(義経平氏を攻めんがために壇浦に発向せんと欲するのところ、雨によつて延引す。ここに周防国在庁船所五郎正利、当国の舟船奉行たるによつて、数十艘を献ずるの間、義経朝臣書を正利に与ふ。鎌倉殿の御家人たるべきの由と云々。
・廿ニ日 乙巳 廷尉、数十艘の兵船を促し、壇浦を差して纜(ともづな)を解くと云々。昨日より乗船を聚(あつ)め、計を廻らすと云々。三浦介義澄、この事を聞きて、当国大島の津に参会す。廷尉曰はく、汝すでに門司の関を見る者なり。今案内者といひつべし。しかれば先登すべしてへれば、義澄命を受け、進みて壇浦奥津の辺 平家の陣を去ること三十余町なり に至る。時に平家これを聞き、船に棹さして彦島を出で、赤間関を過ぎて田之浦にありと云々。
・廿四日 丁未
長門国赤間関壇浦の海上において、源平相逢ひ、おのおの三町を隔てて舟船を漕ぎ向ふ。平家は五百余艘を三手に分ち、山蛾兵藤次秀遠、ならびに松浦党等をもつて大将軍となし、源氏の将帥に挑み戦ふ。午の剋に及びて、平氏つひに敗傾す。二品禅尼宝剣を持し、按察局先帝を抱きたてまつり、共にもつて海底に没す。(以下合戦の経過に関わりのない入水や神器についての記述が続くので省略)


 21日分には序論に挙げた小説や戯曲では義経と水夫攻撃の件で言い争う役回りで船所五郎正利が出てきますが、こちらでは特にそういったやりとりはなし。水夫攻撃勝因説が頭にあると、22日の「計を廻らすと云々」というところでそこに水夫攻撃と考えてみたくもなるかもしれませんが、それはもはや想像の世界でしかありません。

 

 24日の決戦については貴族側の史料よりは詳しい記述がされるものの合戦の経過に関してはそれほど分量を取られず、特殊な作戦やその結果などは記されておりません。一ノ谷の合戦に関しては「九郎主、三浦十郎義連已下の勇士を相具し、鵯越より攻め戦はるる間」と『平家物語』とも通じる義経の戦いぶりやその手柄を記す『吾妻鏡』も、壇ノ浦に関してはやはり他文献同様シンプルな記述で、殊更義経の作戦を強調してはおりませんでした。これとは別に4月11日分に義経の飛脚による合戦の報告もありますのでそれも見てみましょう。


■『吾妻鏡』元暦二年四月
・十一日 甲子 未の尅、南御堂の柱立なり。武衛監臨したまふ。この間、西海の飛脚参じ、平氏討滅の由を申す。廷尉、一巻の記 中原信康これを書くと云々。 を進ず。これ去月廿四日、長門国赤間関海上において、八百四十余艘の兵船を浮べ、平氏また五百余艘を艚ぎ向へて合戦す。午の尅、逆党敗北す。
一、先帝は海底に没したまふ。
一、海に入る人々
 二位尼上(中略)
宗たる分の交名、かつはかくのごとし。このほか男女生取の事、追つて注し申すべし。また内侍所・神璽は御坐しますといへども、宝剣は紛失す。愚慮の覃(およ)ぶところ、これを捜し求めたてまつる。
藤判官代(藤原邦通)御前に跪きこの記を読み申さる。


 しかし源氏方の船数が八百四十余艘とされる件が加わった以外は、戦況に関する情報は先程の記事と大差なく、後は入水や生捕りにされた面々の名前と神器の件が大半を占める記事でした。

 

 ほか、『吾妻鏡』には壇ノ浦合戦後に梶原景時が鎌倉に送ったという書状の中で、義経が痛烈に批判されている箇所があります。「始めに合戦の次第を申し」とのことですが実際には合戦中に起こったという瑞兆の話ばかりなので省略、「終りに廷尉の不義のことを訴ふ」の部分に絞って確認します。


■『吾妻鏡』元暦二年四月廿一日 甲戌
・また曰はく。
判官殿は君の御代官として、御家人等を副へ遣はし、合戦を遂げられをはんぬ。しかるにしきりに一身の功の由を存ぜらるといへども、ひとへに多勢の合力によるか。謂ふに多勢は人ごとに判官殿を思はず、志君を仰ぎたてまつるが故に、同心の勲功を励ましをはんぬ。よつて平家を討滅するの後、判官殿の形勢、ほとほと日来の儀に超過す。士卒の所存、皆薄氷を踏むがごとく、敢へて真実和順の志なし。就中に景時は御所の近士として、なまじひに厳命の趣を伺ひ知るの間、かの非據(ひきょ)を見るごとに、関東の御気色に違ふべきかの由諫め申すのところ、諷詞還つて身の讎(あた)となり、ややもすれば刑を招くものなり。合戦無為の今、伺候據所(よんどころ)なし。早く御免を蒙り、帰参せんと欲すと云々てへり。
およそ和田小太郎義盛と梶原平三景時とは侍の別当・所司なり。よつて舎弟の両将を西海に発遣せらるるの時、軍士等の事を奉行せしめんがために、義盛を参州(範頼)に付けられ、景時を廷尉(義経)に付けらるるのところ、参州はもとより武衛の仰せを乖(そむ)かざるによつて、大小の事を常胤(千葉)・義盛等に示し合はす。廷尉は自専の慮りを挿しはさみ、かつて御旨を守らず、ひとへに雅意に任せて自由の張行を致すの間、人々恨みを成す。景時に限らずと云々。


 ところどころ文意が取り難いので『現代語訳吾妻鏡 2』(※14)から該当箇所を見てみましょう。


・また次のように言った。
判官殿(義経)は君(源頼朝)の御代官として御家人たちを副えて派遣され、合戦を遂げられました。ですから、(義経は)しきりに自分一人の功績によるものと考えていますが、すべては多勢の合力があってのことです。多勢というのも、人々はみな判官殿を思っていたのではなく、君を仰いでいたからこそ、心を一つにして戦功をあげ、平家を滅ぼしたのですが、その後の判官殿の様子はほとんど日ごろの状態を越えていて、兵士たちは薄氷を踏む思いをしています。まったく心から(義経に)従う思いを持ち合わせていません。とくに、景時は御所でお側に仕え、特に厳命をうかがい知っていましたので、その道理に反した行動を見るにつけ、関東(頼朝)の御意向に背いている、と諫め申しましたが、諫めの言葉はかえって身の災いとなり、ともすると刑罰を受けかねない状況です。合戦が無事に終わった今、(義経に)伺候している理由はございません。早くお許しを得て帰参したいと思います。
いったい和田小太郎義盛と梶原平三景時は、侍所の別当と所司である。そこで(頼朝が)二人の弟を西海に派遣する時、軍士のことを奉行させるため、義盛を参州(範頼)に付けられ、景時を廷尉(義経)に付けられたところ、範頼はもともと頼朝の仰せに背かないので、あらゆる事を(千葉)常胤や義盛に相談した。義経は、独自の考えを抱き、頼朝の言い付けを全く守らず思いのままに勝手に物事を執り行うので、人々は恨みを抱いていて、これは景時に限ったことではないという。


 梶原景時が問題にしていることは戦勝は多数の御家人が力を合わせた結果であるのに義経が自分自身の功績に帰しているということと、「自専」「雅意に任せて」というような頼朝の意向を顧みない自分勝手とされる点であり、合戦のルール違反などの告発は全く見られません。義経に批判的な梶原景時でさえそういった告発はしていないということが確認できました。ほか、『吾妻鏡』には義経の弁明の書とされるいわゆる「腰越状」が掲載されており、上洛して以降の戦いぶりを自ら語った箇所があります。そこも見てみましょう。


■『吾妻鏡』元暦二年五月廿四日 戊午
・平家の一族追討のために上洛せしむるの手合に、木曽義仲を誅戮するの後、平氏を責め傾けんがために、ある時峨々たる厳石に駿馬を策(むちうち)ち、敵のために命を亡ぼすことを顧みず、ある時は漫々たる大海に風波の難を凌ぎ、身を海底に沈め、骸を鯨鯢の鰓(あぎと)に懸くることを痛ましくせず。しかのみならず甲冑を枕となし、弓箭を業となす本意は、しかしながら亡魂の憤りを休めたてまつり、年来の宿望を遂げんと欲するのほか他事なし。あまりさへ義経五位の尉に補任の条、当家の面目、希代の重職、何事かこれに加へんや。


 「厳石に駿馬を策ち」の箇所がいわゆる一ノ谷の逆落としを彷彿とさせる記述となっておりますが、壇ノ浦での作戦を思わせる情報は特に見られません。

 

 ということで武家側の史料である『吾妻鏡』ですら「水夫を射させる」「奇襲戦法」などというような義経直々の指揮や戦術などは確認できず、当然その批判もありませんでした。


 最後は同時代の文書類です。「ただし物語の類はここでは一切取り上げないことにする」と宣言し『平家物語』などの情報をほぼ排するという、かなりストイックなスタンスで書き上げられた1966年『人物叢書 義経』ですら壇ノ浦合戦の経過や戦術に関してそうした文書類の利用はなく、『戦争の日本史6 源平の争乱』においても壇ノ浦以外に部分に関しても「歴史学の基本的史料として最も重視されるのは文書であるが、源平の争乱に関係する編纂物に引用されたものを除くと、実はその数は極めて少ない」と言われているほど利用の少ない史料群となります。

 

 それでも『平安遺文 古文書編第八巻 自治承元年(1178)-至元暦2年(1185) 補遺1:自天應元年(781)-承知15年(848)』は1957年に刊行されており説の成立に関与した可能性も一応ありますので、1962年の『平安遺文 古文書編第十巻 拾遺-自延暦八年(789)-至元暦二年(1185)-補遺続・新補』も併せて念のため確認しました。

 

 文書をピックアップする基準は、屋島関連の戦いが一段落して壇ノ浦合戦準備の時期に入る元暦2年2月21日から3月24日に壇ノ浦合戦が終わって3か月は経った6月いっぱいまでとしてあります。結果、以下のようなリストとなりました。


■『平安遺文 古文書編第八巻』(※15)
〇四二二九『葛原氏女田地買券案』〇東寺百合文書ヒ(原文ママ) 元暦二年二月廿三日
〇四二三〇『入道蓮勢文書紛失状』〇岡本文書 元暦二年二月廿四日
〇四二三一『和泉国司庁案』〇田代文書 元暦二年二月廿五日
〇四二三二『摂政藤原基房家政所下文案』〇田代文書 元暦二年二月廿九日
〇四二三三『藤原親能下知状案』〇永弘文書 元暦二年二月 日
〇四二三四『源頼朝書状案』〇熱田神宮文書 
〇四二三五『宮道景親地買券案』田中教忠氏所蔵文書 元暦二年三月二日
〇四二三六『平氏女家地相博状』〇成簣堂所蔵雑文書 元暦二年三月四日
〇四二三七『金剛峯寺下政所三方百姓等起請文』 元暦二年三月五日
〇四二三八『源頼朝下文案』〇金剛寺文書 元暦二年三月十三日 
〇四二三九『勧学院政所下文案』〇東大寺文書四ノ三十九 元暦二年三月廿三日
〇四二四〇『八幡宇佐宮女禰宜大神安子等解案』〇益永文書 元暦二年三月日
〇四二四一『後白河院庁下文案』〇到津文書 元暦二年四月廿ニ日
〇四二四二『関東下知状案』金勝寺文書 元暦二年四月廿四日
〇四二四三『関東下知状』〇賀茂別雷神社文書 元暦二年四月廿八日
〇四二四四『後白河院庁牒』〇賀茂別雷神社文書 元暦二年四月廿九日
〇四二四五『関東下知状』〇書陵部所蔵谷森文書 元暦二年五月一日
〇四二四六『源吉基平義包連著下知状』金勝寺文書 元暦二年五月六日
〇四二四七『梶原景時室消息写』三条家古文書 (日付無し)
〇四二四八・四二四九『藤原親能書状案』〇書陵部所蔵谷森文書 (元暦二年カ)六月五日
〇四二五〇『大宰権帥藤原経房書状案』〇書陵部所蔵谷森文書 六月六日
〇四二五一『権左中弁書状』〇書陵部所蔵谷森文書 六月六日
〇四二五二『清原某田地買券案』〇白河本東寺文書三十五 元暦二年五月二日
〇四二五三『藤原盛宗寺地譲状』〇光明寺古文書 元暦弐年五月三日
〇四二五四『度会神主某畠地相博券〇光明寺古文書 元暦二年五月廿ニ日
〇四二五五『丹後国司庁宣』〇島田文書 元暦二年五月 日
〇四二五六『丹後国司庁宣』〇古文書集一 元暦二年五月 日
〇四二五七『源頼朝下文』〇賀茂別雷神社文書 元暦二年六月六日
〇四二五八『山部則光畠直請取状』〇角田文衛氏所蔵文書 元暦二年六月六日
〇四二五九・四二六〇『源頼朝下文』〇島津文書 元暦二年六月十五日 元暦二年六月十五日
〇四二六一『某荘百姓等解』〇島田文書 元暦二年六月 日
〇四二六二『源義経下文案』〇益田家什書 元暦二年六月 日
〇四二六三『大江広元書状案』〇御池坊文書 元暦二 六月九日
〇四八九四『僧聖範下司職譲状案』〇高山寺所蔵元杲置文裏文書 元暦二年二月 日
〇四八九五『僧全昭解案』〇高山寺所蔵元杲置文裏文書 元暦二年三月廿三日
■『平安遺文 古文書編第十巻』(※16)
〇五〇九三『関東下知状案』〇蠣瀬文書 元暦二年二月 日
〇五〇九四『梶原景季書状』〇岡本貞烋氏所蔵文書 (元暦二年)五月廿五日
〇五〇九五『大法師某陳状案』〇内閣文庫蔵山科家古文書 元暦二年五月 日
〇五〇九六『関東御教書』〇中野忠太郎氏所蔵手鑑 四月六日
〇補一五三『源頼朝書状』〇尊経閣東福寺文書 三月一日(「元暦二年カ」という〇補一五二の後なので一応)


 元暦2年2月21日から3月24日という期間内にこれだけの文書が確認されましたが、案の定というか内容を見ていっても水夫攻撃に関する情報どころか壇ノ浦合戦の作戦・経過・戦況などに関わる文書がゼロという有様です。その結果だけで終わりというのも寂しいので、この中で唯一義経自身発給の文書である四二六二号の下文本文部分を見てみましょう。


■四二六二『源義経下文案』益田家什書(※15)
・兼高知行分
石見国伊甘郷 在小割名須本村良万別府・益田庄石見吉高吉光・疋見別符弥富・仲野庄内得屋郷以下所職田畠等、如元兼高可進退領掌也、向後更不可違失者、依鎌倉殿仰下知如件、在庁官人宜承知、故以下、
元暦二年六月 日
九郎判官殿
源在御判


 これは「鎌倉殿」の代官として義経が西国武士の知行に関わる業務をしていたことが確認される重要な文書であるのだとは思いますが、ごらんのように壇ノ浦合戦の作戦や経過などとは一切無関係の内容でした。ということで、少なくとも60年代前半までに刊行された『平安遺文』で見た限り、やはり文書類からも壇ノ浦の水夫攻撃についての情報は確認できませんでした。


 以上、「水夫への攻撃は『平家物語』諸本のみに見えるが」「『平家物語』以外に水手への攻撃を記す史料は無い」という情報のうち、源平合戦の史料とされる平安時代末期の日記や鎌倉時代成立の編纂史料・史書・史論書・文書類などには見られないことを確かめました。

 

 次回はその『平家物語』における壇ノ浦合戦の水夫攻撃の場面について見てみることにします。ただし一口に『平家物語』とは言っても以下のように、


■『源義経 ――後代の佳名を貽す者か――』
・特に異本が多いのが『平家物語』で、異本間で内容が異なる場合も多く、どの異本を利用するかも考慮の対象となる。

■『戦争の日本史6 源平の争乱』
・なお、『平家物語』には、延慶本・覚一本・長門本・四部合戦状本・『源平盛衰記』・『源平闘諍録』など様々な諸本があり、それぞれに独自な内容が見られることから、一括して扱うことには特に慎重を要する。


と言われるように『平家』諸本はかなりの内容の違いも見られますので、上記引用に書かれているものを含めた各異本から壇ノ浦合戦の水夫攻撃の箇所をピックアップし、合戦の勝因ではない、義経の策とは書かれていない、ルール違反とはされていない等を確認します。

 

続き:

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引用元・参考文献
1:延慶本注釈の会・編 『延慶本平家物語全注釈 第六本(巻十一)』(汲古書院
2:早川厚一 佐伯真一 生形貴重・校注 『四部合戦状本平家物語全釈 巻十一』(和泉書院
3:渡辺保・著 『人物叢書 源義経』(吉川弘文館
4:上杉和彦・著 『戦争の日本史6 源平の争乱』(吉川弘文館
5:藤原兼実・著 『玉葉 第3』(国書刊行会
6:笹川種郎・編 『史料大成 第23』(内外書籍)
7:藤原忠親・著 『山槐記3』(日本史籍保存会)
8:藤原定家・著 『明月記 第1』(国書刊行会
9:藤原実房・著 『大日本古記録 愚昧記(上)』(岩波書店
10:菱沼一憲・著 『源義経の合戦と戦略――その伝説と実像』(角川書店
11:経済雑誌社・編 『国史大系 第14巻 百錬抄 愚管抄 元亨釈書』(経済雑誌社)

12:近藤好和・著 『源義経 ――後代の佳名を貽す者か――』(ミネルヴァ書房
13:永原慶二・監修 『新版 全譯 吾妻鏡』(新人物往来社
14:五味文彦 本郷和人・編 『現代語訳吾妻鏡 2』(吉川弘文館
15:竹内理三・編 『平安遺文 古文書編 第8巻』(東京堂
16:竹内理三・編 『平安遺文 古文書編 第10巻』(東京堂

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