東国剣記

東国の剣豪、武芸、中世軍記、そのほか日本の合戦諸々について扱うブログです。

【義経の指示した水夫への攻撃が壇ノ浦の勝因とする幻想③】 『平家物語』諸本から根拠がないことを確認

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 前回壇ノ浦合戦の基本史料から「『平家物語』以外に水手への攻撃を記す史料は無い」という情報の真偽についての確認を行い、実際その記述がなかったことを確かめました。今回はその水夫への攻撃が唯一記されているという『平家物語』諸本から見ていきます。検証だけでなく、壇ノ浦合戦に関する各本ごとのばらつきや内容の多彩さを見て『平家』諸本比較の面白さを知っていただければ幸いです。

 

 まず『平家物語』及び異本の成立の概略は以下をご参照ください。

 

平家物語(読み)へいけものがたり
日本大百科全書(ニッポニカ)「平家物語」の解説
kotobank.jp平清盛(きよもり)を中心とする平家一門の興亡を描いた歴史物語で、「平家の物語」として「平家物語」とよばれたが、古くは「治承(じしょう)物語」の名で知られ、3巻ないし6巻ほどの規模であったと推測されている。それがしだいに増補されて、13世紀中ごろに現存の12巻の形に整えられたものと思われる。作者については、多くの書物にさまざまな伝えがあげられているが、兼好(けんこう)法師の『徒然草(つれづれぐさ)』(226段)によると、13世紀の初頭の後鳥羽院(ごとばいん)のころに、延暦寺(えんりゃくじ)の座主慈鎮和尚(じちんかしょう)(慈円)のもとに扶持(ふち)されていた学才ある遁世者(とんせいしゃ)の信濃前司(しなののぜんじ)行長(ゆきなが)と、東国出身で芸能に堪能(たんのう)な盲人生仏(しょうぶつ)なる者が協力しあってつくったとしている。
・やがて琵琶法師の語りといえば『平家物語』のそれをさすようになっていった。この琵琶法師による『平家物語』の語りのことを「平曲(へいきょく)」というが、この平曲が大きな成熟をみせるのは鎌倉時代の末で、この時期に一方(いちかた)流と八坂(やさか)流という二つの流派が生まれ、多くの名手が輩出した。これらの琵琶法師たちが平曲の台本として用いたのが、語り本としての『平家物語』で、一方流系と八坂流系の二つの系統に大別される。これらに対して、読み物として享受されたのが読み物系の諸本で、『延慶(えんぎょう)本平家物語』6巻、『長門(ながと)本平家物語』20巻、『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)』48巻などがある。

 

 さて、早川厚一氏の『『平家物語』諸本の研究史 一九四五年以後』(※1)によると、平家物語の主要な異本として『四部合戦状本』『源平闘諍録』『延慶本』『長門本』『源平盛衰記』『南都本』『屋代本』『覚一本』の8種類が挙げられておりますが、当記事ではそのうち壇ノ浦合戦のパートを持たない『源平闘諍録』と都合により調べられなかった『南都本』を除き、代わりに語り本系の『城方本』『百二十句本』を含めて比較検討します。なお、『源平盛衰記』だけで10数種の写本というように、諸本は更に細かなバリエーションを持ちますが、大きな違いは期待できない上にキリがないのでそこには踏み込みません。

 

 

 最初に、現在一般的なイメージの『平家物語』における壇ノ浦合戦の水夫攻撃の記述を現代語訳つきで『平家物語全注釈』から確認しましょう。こちら『平家物語全注釈』は平曲台本として完成した『覚一本』と江戸時代以降に広まった『流布本』との間に位置する『葉子十行本系米沢本』を底本としておりますが、壇ノ浦の箇所の内容的には『流布本』と大きな差はありません。


■『平家物語全注釈』(米沢本)巻第十一(※2)
・阿波民部重能は、此の三箇年が間、平家に付いて、忠を致し奉りしかども、子息田内左衛門尉教能を生捕りにせられて、今はいかにも叶はじとや思ひけん、忽ちに心替はりして、源氏と一つになりにけり。中納言知盛卿「あつぱれ重能を切つてすつべかりけるものを」と後悔せられけれども、甲斐ぞなき。平家の謀によき人をば兵船にのせ、雑人原をば唐船に乗せて、源氏心にくさに唐船を攻めば、中に取り籠めて討たんとしたくせられたりしかども、重能が返忠の上は、唐船には目も懸けず、大将軍のやつし乗り給へる兵船をぞ攻めたりける。さる程に、四国・鎮西の兵共、皆平家を背いて源氏に付く。今まで随ひ付きたりし者共も、君に向かつて弓を引き、主に対して太刀を抜く。彼の岸につかんとすれば、波高うして叶ひ難し。此の汀によらんとすれば、敵矢尖をそろへて待ちかけたり。源平の国あらそひ、今日を限りとぞ見えたりける。
さる程に、源氏の兵共、平家の舟に乗り移りければ、水主梶取共、或は射殺され、或は切りころされ、舟をなほすに及ばず、舟底に皆倒れ臥しにけり。中納言知盛卿、世の中は今はかうとや思はれけん、小舟に乗り、急ぎ御所の御舟に参り、「世の中は今はかうと覚え候。見苦しき物共皆海へ入れさせ給へ」とて、ともへに走り廻り、はいたり、のごうたり、塵ひろひ、手づから掃除させられけり。

訳:阿波民部重能は、この三年間、平家のために忠勤を励んでいたけれども、子息、田内左衛門尉教能を生捕りにされて、今はどうにも仕方がないと思ったのであろう、たちまち心替わりして源氏に味方してしまった。中納言知盛卿は、「あのとき重能めを斬って棄つべきであったのに」と後悔されたけれども、今さら如何ともすることができない。平家の謀として、高貴の方々を兵船にお乗せし、雑人たちを唐船に乗せて、もしも源氏が大将軍の船であろうと思って唐船を攻めたならば、これを取り囲んで討とうとの手筈を調えていたけれども、重能が寝返りを打った以上、源氏は唐船には目もくれず、大将軍のやつして乗っておられる兵船を攻めたてたのである。
 さて、四国・九州の兵たちはみな平家に叛いて、源氏方に付いた。今まで平家に随い付いていた者たちも、天皇に向かって弓を引き、主君に対して太刀を抜いた。あちらの岸に着こうとすれば、波高くしてかなわず、こちらの汀に船を寄せようとすれば、敵が矢先を揃えて待ち構えている。源平両軍の天下分け目の合戦はいよいよ今日が最後と見えたのであった。
 さて、源氏の兵たちは、平家の船に乗り移ったので、船頭や船方たちは、あるいは射殺され、あるいは斬り殺されて、船の向きをかえることもできず、船底にみな倒れ伏してしまった。中納言知盛卿は、今はもうこれまでと思ったのか、小船に乗り、急ぎ天皇のお召船に参り、
「わが平家も今はこれまでと思われます。見苦しいものは海にお棄てなされ」
とおっしゃって、船内を、艫へ行ったり舳先へ行ったり走り廻って、掃いたり、拭いたり、塵を拾ったり御手ずから掃除なされた。


 息子の田内左衛門が既に義経によって生捕りにされていたために起こった阿波民部重能の裏切りによって、この合戦における平家側の策の要であった「唐船」の偽装の一件が源氏側に伝わってしまい、また彼の裏切りに続いて四国九州の武士たちも皆源氏方となりました。そしてそれによって勢いづいた源氏側の武士が、平家方の船団に乗り込んでその船を操縦する水夫たちを射殺す・切り殺すという流れが描かれます。

 

 その攻撃は平家方の逃げる足を奪う実質的なとどめにはなった形ですが、不利な源氏方が起死回生の逆転劇を生んだ要因と見るのはどう考えても無理でしょう。戦況の確定は明らかにそれ以前の阿波民部の行動が原因です。

 

 また水夫への攻撃が義経の指示であったという言及もなく、水夫を攻撃することが合戦のルール違反などと批判する語り手・作中人物の認識も一切伺えないことによく注意してください。それが前代未聞の革新的な戦法であったといった認識も見られません。序論に引いた小説や戯曲などとは違いが歴然です。数多く存在する『平家物語』諸本でもその点においては変わらないことをこれから示していきます。

 

 以下、すべて諸本の引用は原文が片仮名文である場合は平仮名文に直し、引用元に釈文がある場合はそれを用います。阿波民部の裏切りによって戦況が確定したことを示すために引用部分も長くなりますがご容赦下さい。諸本によってその阿波民部の名前も重能・重義・成能・成良と様々な表記ブレがあり、「しげよし」ではなく「なりよし」と読むものもあったりバラエティー豊かですがすべて同じ役割を果たす人物となります。

 

 また、引用文全てを読む気はないがポイントだけ確認したいという人向けに『平家物語』において本来の勝因とも言うべき阿波民部の裏切り(返り忠)の記述、それに続いての源氏方による水夫への攻撃、そして敗北を悟った新中納言知盛が敵が乗り込んできたときに見苦しいと思われないようにと掃除を始めるために女房たちの船に現れる箇所にアンダーラインを引いてあります。源氏方が遠くからではなく平家方の船に押寄せて水夫を攻撃したと明確な記述がある場合はそちらにも引きました。その文章だけでもチェックしてみてください。


 まずは平曲を完成させたとされる『覚一本』から見て行きましょう。引用元の『日本古典文学大系 平家物語』の底本は『覚一本』中最も古い形を示すという『龍谷大学図書館本』です。


■『覚一本平家物語』(※3)
「遠矢」
・阿波民部重能は、この三が年があひだ、平家によくよく忠をつくし、度々の合戦に命をおしまずふせきたたかひけるが、子息田内左衛門をいけどりにせられて、いかにもかなはじとやおもひけん、たちまちに心がはりして、源氏に同心したんげり。平家の方にははかりことに、よき人をば兵船にのせ、雑人どもをば唐船にのせて、源氏心にくさに唐船をせめば、なかにとりこめてうたんとしたくせられたりけれども、阿波民部がかへりちう(返忠)のうへは、唐船には目もかけず、大将軍のやつしのり給へる兵船をぞせめたりける。新中納言「やすからぬ。重能めをき(ッ)てす(捨)つべかりつる物を」と、ちたび(千度)後悔せられけれどもかなはず。
 さる程に、四国・鎮西の兵ども、みな平家をそむいて源氏につく。いままでしたがひついたりし物どもも、君にむか(ッ)て弓をひき、主に対して太刀をぬく。かの岸につかむとすれば、浪たかくしてかなひがたし。このみぎはによらんとすれば、敵矢さきをそろへてまちかけたり。源平の国あらそひ、けふをかぎりとぞ見えたりける。
「先帝身投」
・源氏の兵ども、すでに平家の舟にのりうつりければ、水手梶取ども、ゐころされ、きりころされて、船をなをすに及ばず、舟ぞこにたはれふしにけり。中納言知盛卿小船にの(ッ)て御所の御舟にまいり、「世のなかいまはかうと見えて候。見ぐるしからん物どもみな海へいれさせ給へ」とて、ともへにはしりまはり、は(掃)いたりのご(拭)うたり、塵ひろい、手づから掃除せられけり。


 こちらは前述のように『葉子十行本』や『流布本』系の祖本であり、仮名遣いや言い回しの多少の違いこそありますがこのように流れは大体において『平家物語全注釈』と同一です。なお、「遠矢」「先帝身投」と分割されておりますが中断なく一続きでの引用であり、以降も(中略)としている場合を除き二分割となっていても同じように一続きで引用してあります。

 

 語り本から始まりましたので続いて『覚一本』の一方(いちかた)流とは異なる城方(じょうかた、八坂)流の語り本の一種である『城方本』に行きたいと思います。以下の記事によると両流派は元々同一で、城一という人物の後に彼の「城」の字を継ぐ城玄と「一」の字を継ぐ如一の流派に分かれ、城方流・一方流となったという伝承(『日本古典文学大系 平家物語』(※3)解説によると江戸時代の『当道要集』出典)があるようです。

 
kotobank.jp・城一のあと,八坂城玄と坂東如一の2人が,それぞれ八坂流,一方流に分れ,異なる伝承をするにいたったと伝えられる。八坂流は城方ともいい,伝承者の名前に城の字が入り,一方流は,同様に一または都 (いち) の字が入る。


 「一方流は,同様に一または都 (いち) の字が入る」ということは、有名な耳なし芳一は覚一と同じ一方流系統の琵琶法師となりますね。では『城方本平家物語』本文を見てみましょう。


■『城方本平家物語』巻第十一(※4)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1087779/267
「遠矢の沙汰(あひ)」
・中にも阿波の民部重義は 此日来 平家に忠をいたしけるが 嫡子田内左衛門を 九郎判官に 生捕れ 恩愛の道の かなしさは 今一度子を見むともや 思ひけん 味方の赤旗 赤じるし 切すて かなぐりすて 白旗白じるしに なつて 判官の勢にぞ くははりける 扨こそ大臣殿も 新中納言も 哀 きやつを きるべかりつる物をと 後悔し給へども 甲斐ぞなき 其後 空より しら雲一村 みえけるが (以下略:白旗の瑞兆やイルカ占いなどが続く)
「先帝の身投」
・其後海鹿(いるか)と云 魚一二千が程(中略)海鹿は 平家の舟の下よりも 悉 はみかへりけり 扨こそ 大臣殿も 新中納言も けふをさいごとは 思はれけれ 其後 平家 はかりごとに 唐船に 雑人をのせ 兵船に平家の君達乗給ふ 源氏定て 唐船をぞ せめんずらむ 其時 兵船をもつて 中に 取籠 うたんとは 議せられけれ共 阿波の民部重義が 返り忠のうへは 唐船は 射そ矢だうなに 兵船を射よとぞ をしへける 支度 相違してんげる かの岸に あがらむと し給へば 源氏矢さきを揃て 待ち懸たり 日来(ひごろ)は身に かはらん命にかはらむと 契りし 兵共も けふは 君に向かつて 弓をひき 主に対して 太刀をぬく 水手楫取共は 船底に 射ふせられ 切伏られて をめき さけぶ事 斜ならず 源平の国あらそひ 唯けふを限りとぞ みえし 其後 中納言知盛 御所の 御船へ 参らせ給ひて 申させ給ひけるは 今ははや 見ぐるしき物共候はば 海へ入させ給へ とて はきのごひ 塵ひろひなんど し給へば


 読む限りでは阿波民部裏切りの後に挿入された瑞兆やイルカ占いのタイミングがテンポを悪くしている感じもありますが、言い回しが簡潔な箇所も目立つなど、『覚一本』とは別々の流派の台本というだけあって印象が大幅に異なります。「源平の国あらそひ 唯けふを限りとぞ みえし」のタイミングが水夫攻撃の後になるというのは、今回引用した諸本の中では唯一です。

 

 更に、八坂流系とも『覚一本』『城方本』以前の語り本系古本ともされる『屋代本』や、それと近い内容を持つ『百二十句本』も見ていきましょう。『百二十句本』は平仮名が多く一見文意を取り難いところがありますが、『屋代本』と比べて読むことで理解しやすいかと思います。なお、『百二十句本』は一見奇妙なタイトルですが本来標題を欠いており、

 

■『日本古典文学大系 平家物語』(※3)
・各巻十句(句とは齣、平曲上の用語)に切り、計百二十句あるによる呼称。

 

といった理由で便宜上そのように呼ばれているとのことです。


■『屋代本平家物語』巻第十一(※5)
・阿波民部成能は、此三ヶ年の間、平家に能く忠を尽したりけれ共、嫡子田内左衛門を源氏の方に生虜にせられて、恩愛の道の悲しさは、今一度見と思けれは、忽心替して赤録し切捨て、源氏の型へそ付にける。平家は、唐船には次様の者をのせ、源氏定て唐船をそ責んとすらむ、兵船に可然(しかるべき)人々乗て、源氏を中に取籠て射んと支度したる処に、成能返忠して、「唐船には可然人々も乗給はす。矢たうなひに兵船を責よ」とそ教ける。其時兵船を指合て、散々に射る。さてこそ支度相違してんけれ。
 只今まて随付たりける四国、鎮西の兵共、君二向て弓を引き、主に向て太刀を抜く。彼岸へ着んとすれは、波高ふして不叶。此浦によらんとすれは、敵待懸て討んとす。源平の国の諍ひ、今日を限そと見たりける。
 水手、梶取も被射臥、被切伏て、船底に倒れふためき、喚叫ひけるこそ悲しけれ。中納言知盛、御所の御船に参り給て、「見苦しき物とも、急き皆海に沈めさせ給」とそ宣ける。

■『百二十句本平家物語』巻十一(※6)
「だんのうら」
・あはのみんぶなりよし(阿波民部成能)は、三がねんのあひだ平家にちう(忠)をつくしてありけれ共、ちやくし(嫡子)でんないざゑもん(田内左衛門)を源氏のかたへいけどられて、おんあいのみちのかなしさは、いま一ど見んとおもひければ、たちまちに心がはりして、あかじるしきりすて、源氏のかたへぞつきにける。平家はたうせん(唐船)にはつぎさまのものをのす。源氏さだめてたうせんをせめんずらむとてなり。ひやうせん(兵船)にしかるべき人々をのせて、げんじをなかにとりこめてうたんとしたくしたりけるところに、なりよしかへりちう(返り忠)して、たうせんにはよき人のり給はぬぞ。ひやうせんいよ(射よ)とをしゑ(教え)ければ、さしあはせてさんざんにいる。さてこそしたくさうい(相違)してんげれ。ただいままでしたがいつゐたりけん四こくさいこくのつはもの、きみにむかふてゆみをひき、しうにむかふてたちをぬき、かのきしにつけんとすれば、なみたかふしてかなはず。此うらによらんとすれば、かたきまちかけてうたんとす。源平の国あらそひ、けふをかぎりと見えたりけり。すいしゆかんどり(水手楫取)どもうちころされ、きりふせられ、ふなぞこにたふれふためき、さけぶこゑこそかなしけれ。
「はやとも」
しん中なごんとももり、御しよの御ふねにまいり給ひて、ねうばう(女房)たち、見ぐるしきもの共みなうみにしづめ給へとの給へば、


 『屋代本』は語り系古本ともされるだけあって、「阿波民部成能は、此三ヶ年の間、平家に能く忠を尽したりけれ共」という『覚一本』似の言い回しで始まりながら「恩愛の道の悲しさは」という『城方本』似の記述が続くなど、両者の特徴を併せ持っているようにも見受けられます。続く『百二十句本』は『屋代本』と近い系統であることが明らかです。

 

 

 次は、古態論争ではもっとも古い形をとどめていることが有力視されている『延慶本』ほか、読み本系諸本を見ていきます。こちらはその分類名通り「語り」の台本ではなく最初から読み物として書かれた本とされているものです。


■『延慶本平家物語』第六本(※7)
・平家は舟を二三重にこしらへたり。唐船には軍兵共を乗せて、大臣殿以下、可然人々は兵船に召て、唐船には大将軍乗給へる由をして、唐船を責めさせて、源氏を中に取籠て討んとはかり給たりけるを、阿波民部成良忽に心替して返中(原文ママ)してんげれば、四国の軍兵百余艘進戦わず、船を指退く。平家怪をなす所に、成良申けるは、「唐船には大将軍は乗給はず。兵船に召たるぞや。兵船を責給へ」とて、民部大夫が一類、四国者共指合て、後より平家の大将軍の船をぞ責たりける。平家の軍兵周章乱れぬ。「哀れ、新中納言は能宣つる物を」と、大臣後悔し給へども、甲斐なし。源氏の者共いとど力付て、平家の船に漕寄す。乗移乗移責けり。かかりければ、平家の船の水夫梶取、魯を捨かひ(櫂)をすてて、船をなをすに不及(およばず)、射伏られ切伏られて船底にあり。剣のひらめく事、田面の雷光の如し。虚空を流矢の飛事は、時雨の雨にぞ似たりける。源氏は刀俎の如にて、平家は魚肉に不異(ことならず)。
 かく散々と成にけれども、中納言は少も周章(あわて)たる気色もし給わず。女院北政所なむどの御船に参り給ひたりければ、女房達音々(こゑごゑ)に、「いかにいかに」と、あわてふためき間給ければ、「今はかく申に不及(およばず)。軍(いくさ)は今はかう候。夷共舟に乱入候ぬ。只今東のめづらしき男共、御覧候わんずるこそ浦山敷候へ。御所の御船にも見苦物候はば、能々取捨させ給へ」とて、


 今まで紹介した語り系諸本と異なり、語りの台本という制約がないからなのか格段に文章が巧みになりました。肝心の水夫攻撃の場面の「剣のひらめく事、田面の雷光の如し。虚空を流矢の飛事は、時雨の雨にぞ似たりける。源氏は刀俎の如にて、平家は魚肉に不異(ことならず)」とはまさに言い得て妙という感じで、ビジュアル面でも状況面でも読者の頭にイメージが浮かびやすいものとなっております。

 

 一方で語り系諸本で見られた「君に向かつて弓を引き、主に対して太刀を抜く」「源平の国あらそひ、今日を限りとぞ見えたりける」に相当する文章がないのも特徴的です。しかしこの『延慶本』も引用箇所外になりますが、最早知盛が入水の準備を始めた後にも関わらず義経が弱気に感じイルカ占いが入るなど、流れに辻褄が合っていると言い難い部分もあります。

 

 また、『城方本』以外の語り本で見られた「阿波民部重能は、この三が年があひだ、平家によくよく忠をつくし」云々の文章は『延慶本』においては壇ノ浦合戦のパートには見られませんが、実は以下のように屋島合戦後の田内左衛門生捕りのパートにあり、


■『延慶本平家物語』第六本
・民部大夫成良は、「田内左衛門生虜にせられぬ」と聞ければ、浦々嶋々泊々に着たれども、肝心も身にそわで、我子の行へぞ悲しかりける。四国の輩も此を見て、所々の軍にもすすまざりけり。平家方には民部大夫成良を副将軍と被憑(たのまれ)たりけれども、四国の輩不進ければ、漸うしろ次第にすきて危くぞみへられける。成良も此の三ヶ年之間平家に忠を尽て、度々の軍にも父子共に命を不惜戦けるが、事の有様叶まじと思ける上、田内左衛門生虜(いけどら)れにける間、忽ちに九郎判官に心を通して、阿波国へ渡してければ、当国の住人皆源氏に随にけり。人の心は無慚の物也。是も平家の運の尽ぬる故也。


平家方の副将の役割を担わされている成良が開戦前から義経に通じてしまっているという、壇ノ浦の敗戦の確実な布石が他本以上に明確に打たれた形になった際に用いられております。

 

 次はこの『延慶本』と系統が近い読み本とされる『長門本』を見てみましょう。


■『長門本平家物語』巻十八(※8)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991256/347
・平家五百余艘と申は、松浦党の船百余艘、山鹿兵藤次秀遠が一党三百余艘、平家の一門の船百余艘也、平家は四国九州の兵をば、御陣の武者に頼みて、定めてともに鬨を合せ進むらんと思ひ給ひければ、四国の者ども源氏と一になりて、平家を中に取籠てさんざんに射る、平家周章てまよひ給にけり、今まで御方と思しつる者どもが、我に向て弓を引剣をぬきければ、敵も御方も見分けず、源氏は唐船をぞ心にくうはせんずらんとて、唐船にはけしかる物どもを、武者に作りてのせあつめて、兵船には究竟の船をのせて、源氏唐船に乗うつらば、兵船にて押まきて討んとしたりけるに、阿波民部がかへり忠してけれは、源氏唐船に目をもかけず、兵船に押寄せて、水手梶取どもを射伏せ切伏せければ、船を直すに及ばず、ろ棹を捨てて、船の底に倒れ伏しければ、源氏みな平家の船に乗移り、さんざんに戦ふ、哀れ新中納言のよくのたまひつる物をと、人々後悔しけれどもかひなし、阿波民部成良は此二三ヶ年平家に忠をつくし、度々の軍に父子ともに身命を惜まず戦ひけるが、事の体いかにも叶はじと思ける上、嫡子成直捕られにければ、判官に心を通はしければ、当国住人等、源氏に従ひ、忽ちにかくしけるこそ人の心をむざんなれ、是も、平家の運の尽ぬる故也、中納言知盛は、女房達の御船に参りて、見ぐるしきものども取清め候へやとのたまへば、


 『延慶本』と『長門本』は現在平行して記事を書いている源行家の二刀流のパートなどではかなりよく似た本文を持つのですが、この壇ノ浦の場面だけ見比べてみるとあまり似ているとは言えません。『延慶本』の水夫攻撃の場面にある「剣のひらめく事、田面の雷光の如し。虚空を流矢の飛事は、時雨の雨にぞ似たりける。源氏は刀俎の如にて、平家は魚肉に不異」というような流麗な表現もなく、「阿波民部成良は此二三ヶ年平家に忠をつくし」云々の文言もそちらとは入る位置が違います。

 

 ただし、語り本系が「四国・鎮西の兵ども」「四国、鎮西の兵共」「四こくさいこくのつはもの」と四国以外の九州などの軍勢も阿波民部に呼応して裏切っているとするのに対し、『延慶本』『長門本』は共通して「民部大夫が一類、四国者共指合て」「四国の者ども源氏と一になりて」というようにこの場面における裏切りを四国勢だけに限っているとする点などは共通です。

 

 次も同じく読み本系の『四部合戦状本』を確認しましょう。こちらも研究史を見ると、


名波弘彰平家物語の成立圏(畿内)』(※1)
・とくにその転換を加速させたのが、一九七〇年代以降に起こった、いわゆる読み本系諸本に焦点を当てた古態本論争であった。なかでも特有の漢文体で比較的史実性を重視した四部合戦状本と、多分量の記事を有し、唯一鎌倉時代(延慶二年奥書)のテキストの様態を伝える延慶本との間における古態本論争へと関心は集中した。


というように戦後の一時期『延慶本』と古態本の地位を争ったとされる重要な異本です。上記引用のように本来は「特有の漢文体」となっておりますがここではわかりやすさ重視のため、『四部合戦状本平家物語全釈 巻十一』から釈文を用います。


■『四部合戦状本平家物語』巻十一(※9)
・平家の方には、「山鹿兵藤次秀遠」と名乗りて、漕ぎ廻りて射る間、源氏は船を引かへたるに、平家之を見て、「矢合に勝ちぬ」とて、大鼓を打ちて喜びの時を作る。四国の者共は声を合はせねば、恠(あや)しみを成す処に、差し合はせて平家を射る。之を見て、平家は亦劇騒しければ、「新中納言は吉く言ひけるものを」と、大臣殿後悔したまへども、其の甲斐ぞ無き。
 而る程に、源氏の方より鰒(フカ)と云ふ魚の平家の方へ向かひければ、大臣殿、小博士信明を召して、「勘(かんか)へ申せ」と仰せられければ、「喰(は)み返り候はば、源氏討たれ候ふべし。喰み通り候はば、御方(みかた)危く)候ふ」と申せば、彼の魚、平家の中を通りけり。「今は降候ふ」とぞ申しける。
 源氏の兵共は、唐船には目も懸けず、衰して乗りたまふ大将軍の船をぞ責めたりける。唐船には大将軍乗りたまふ由して、大臣殿以下然るべき人々は、兵船に乗りたまひて、唐船を責めさせ、中に取り込めて射んと議りけれども、阿波民部の返り忠(仲)してければ、平家は支度悉く相違し、手向かへも及ばず、唾(あは)て騒ぐ。
 源氏は皆、平家の船に乱れ乗りぬ。乗り替へて迫めぬれば、水取・梶取共、梠械を捨てて、船を直すには及ばず、射伏せられ切り伏せられて船底に在りけり。是く散々と成りにけれども、中納言は少しも騒く気色も無く、女院北政所なんどの御船に参りたまへば、

 

 こちらも最初阿波民部の名前が出ずに四国勢の裏切りによる攻撃が行われ、その後彼の返り忠が語られる点は『延慶本』より『長門本』に似ています。一方で裏切りの後にイルカ占いが入るというタイミングは語り系『城方本』同様ですが、作劇上有効に働いているとは言えずやはりテンポを悪くしている感があります。裏切りが四国勢のみというのは読み本系では大勢なのか『四部合戦状本』もここは『延慶本』と『長門本』とに共通でした。

 

 最後は同じく読み本系に分類されますが、それにとどまらない集成本としての位置づけを持つと考えられる『源平盛衰記』からです。


■『源平盛衰記』巻第四十三(※10)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/770202/132
「源平侍遠矢 附成良返忠の事」
・民部大輔成良は、さしも平家に忠を致ししか共、忽ちに心替して、四国の軍兵三百余艘漕却て、軍の見物して居たり、平家強らば源氏を射ん、源氏勝色ならば平家を射んとぞためらふたる、天をも度(はか)りつべし、地をも度るべし、只度る可からざるは人の心と、誠なる哉、成良、
源氏、海には櫓棹を並べて、兵船数を知らず、陸には轡を並べて、其勢雲霞の如し、平家如何にも叶ひ難く見えける上、子息伝内左衛門が事も悲しければ、成良、判官へ使を立てて申しけるは、唐船には大将軍の乗りたる様にて軍兵を乗せられたり、兵船には大臣殿巳下の公達召されたり、唐船を攻めさせて源氏を中に取りこめんと支度し侍り、御意有るべき由中言して、成良が一類、相従ふ四国の者共、三百余艘漕寄せつつ、指合せて平家を射る、成良は心替の者なり、頸を切らばやと、中納言のよく宣ひける者をと、大臣殿後悔し給ひけれ共、云ひかたなし、
「知盛船掃除 附海豚を占フ 並 宗盛取替子の事」
・源氏の兵共いとど力を得て、平家の船に漕寄せ漕寄せ乱れ乗る、遠きをば射、近きをば斬る、竪横散々に攻む、水夫楫取魯をすて楫を捨て、船を直すに及ばず射伏せられ切伏せられ、船底に倒れ水の底に入る、中納言女院、二位殿などの乗り給へる御船に参られたりければ、


 『盛衰記』は「平家強らば源氏を射ん、源氏勝色ならば平家を射んとぞためらふたる」という日和見の記述が特徴的です。「成良が一類、相従ふ四国の者共、三百余艘漕」ということですが、これは


■『源平盛衰記』巻第四十三
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/770202/132
「源平侍遠矢 附成良返忠の事」
・同三月廿四日、九郎判官義経已下の軍兵、七百余艘にて夜の陵晨(アケボノ)に攻寄す、平家待請たり、五百余艘の兵船を漕向へ、


という平家五百余艘のうちの60%程度であり、それが陣営を変えたことによって源氏と平家の戦力差一千余艘対二百余艘というとんでもない差を持つことになります。この船数が史実かどうかはともかく、物語上においては阿波民部の裏切りによって戦況が決定的になったことの強調としては非常によく機能していると言えます。

 

 四国勢だけの裏切りというのはこれまで挙げてきた読み本系諸本と共通であるほか、「子息伝内左衛門が事も悲しければ」は『覚一本』以外の語り本に見られる「嫡子田内左衛門を源氏の方に生虜にせられて、恩愛の道の悲しさは」等を思わせ、まさにここだけを見ても集成本の趣があると言えそうです。

 

 ほか、読み本系としては五巻分のみ残る『源平闘諍録』(※11)は確認したところ巻八之下の一ノ谷合戦までで終わっており、壇ノ浦合戦がありませんので今回の比較からは外れました。

 

 そして残念ながら『南都本』は今回都合により調べられませんでしたが、冒頭早川厚一氏の『『平家物語』諸本の研究史 一九四五年以後』の表によると、『南都本』にスポットを当てて書かれた論文が現れるのは1969年以降というように、序論に引いた1967年に雑誌掲載された司馬遼太郎氏の小説『義経』の壇ノ浦合戦よりも後となります。従って『南都本』は水夫攻撃勝因説の成立にはほぼ影響がなかったものとして今回はご容赦ください。宿題として機会を見て確認してきたいと思います。一応、『延慶本平家物語全注釈 第六本(巻十一)』(※12)238ページの『壇浦合戦諸本対照表』で見る限りでは『南都本』は<覚・南>という『覚一本』と全く同じ扱いになっており、そちらと共通した構造を持つようです。


 物語ついでに『義経記』も見ておきましょう。こちらは室町時代頃の成立とされるタイトル通り義経を主人公とした物語で、成立年代や性質から言って史実の反映とは考えられないパートが多く源平合戦記の信頼できる史料として扱われることはほぼないですが、参考程度に確認します。なお、『義経記』は本ブログでは既にみね打ちの項で取り扱っております。


■『義経記』(※13)
・大風浪おびただしくて船の通ふべき様もなかりしを、ただ五艘にて馳せわたし、僅かに五十余騎にて、憚る所なく八島の城に押寄せて、平家数万騎を追ひ落とし、壇の浦の詰軍(つめいくさ)までも、終に弱げを見せ給はず、漢家本朝にもこの殿ほどの大将軍、争(いか)でかあるべきとて、


 『義経記』は受容側が義経屋島や壇ノ浦での軍功を知っていることを前提としているのか、義経の人生のハイライトと言うべきその場面をごく簡単な説明だけをして片づけてしまいます。源平合戦における義経の傑出した軍功を顕彰するだけで、壇ノ浦での作戦に関して特筆すべき記述もありません。


 以上、今回見てきたように『平家物語』諸本はそれぞれ独自の本文を持っておりましたが、壇ノ浦合戦における水夫への攻撃が義経の奇策であるとか当時の人間の常識外の行動であるとかルール違反・掟破り・新戦法であるなどという認識はどの異本からも確認できませんでした。同様に、阿波民部の裏切りにより戦況が完全に源氏方のものとなった後に水夫が攻撃されるというのは、今回挙げた『平家物語』各本において共通でした。やはり水夫への攻撃は壇ノ浦の逆転勝利の要因とは到底言えないものであり、むしろ物語上においては阿波民部の返り忠によって戦況が決まったからこそ行い得た攻撃であると見た方が適切です。

 

 また、どの異本においても水夫が攻撃された直後に、もはや勝敗は決したことを悟った新中納言知盛が御所船に来て、入水の前に見苦しくないようにと掃除を始めさせていることから、合戦の大詰めの部分であることも確認できました。そして全てにおいて水夫が射殺されるだけでなく切り殺されていることも同時併記です。当時の常識外の発想を持つ義経が緒戦でまず水夫を弓で狙い打ちして平家方の船の機動力を奪うことで一方的に勝ったような見方は『平家』諸本本文をどう見ても成り立ちません。結局、序論に上げた以下の情報がやはり正しかったことになります。


■延慶本注釈の会・編 『延慶本平家物語全注釈 第六本(巻十一)』
・しかし、水夫への攻撃は『平家物語』諸本のみに見えるが、『平家物語』諸本では、これは成良の返忠などによって源氏が圧倒的優勢になった結果であり、源氏勝利の原因として描かれているわけではない。さらに、「射伏ラレ切伏ラレテ」とはあるものの、前項注解に見たように、<延・盛・四・覚>では、源氏の軍兵が平家の船に乗り移って水夫・梶取を殺害したとする。従って、「漕手をまず倒した」という想定自体、根拠のないものである。なお、海戦において、非戦闘員である水夫を攻撃しないというルールが存在したかどうかについては未詳。

早川厚一 佐伯真一 生形貴重・校注 『四部合戦状本平家物語全釈 巻十一』(※9)
・その叙述は微妙だが、「射ふせ切ふせければ」とあるように、矢による攻撃と白兵戦の両方による被害である。金指正三は、「平氏軍の兵船の梶取・水主を専ら射殺」した「奇襲戦法」を、源氏の勝因とする。しかし、『平家物語』諸本の記事構成に従う限り、源氏の水手への攻撃は、成良の裏切りによって大勢が決した結果として生じたことである。諸本とも、この攻撃によって源氏が勝利したと語るわけではなく、成良の裏切りによって兵船が攻撃され、その結果として水手が殺されたという展開なのである。それを源氏の勝因とするのは恣意的な読解と言わざるを得ないし、『平家物語』以外に水手への攻撃を記す史料は無い。また、それが「奇襲戦法」であったとする点も、確証を欠き、想像の域を出ない。


 史料からの検証を終えて記事を一区切りするに当たって、それを改めて強調しておくこととします。

 

 では、次回以降はなぜこれまで見てきたように史料には根拠がないにも関わらず、このような説が成立し、広まり、信じられるようになったかを近現代の研究者の論文・著作、そして序論に挙げた小説などから改めて確認します。

 

 次の第4回は、序論の引用でも名前が出ている近代日本史学界の大物と、その判官贔屓の姿勢が色濃く出た著作・論文について取り上げる予定です。

 


引用元・参考文献
1:山下宏明・編 『平家物語の生成』(汲古書院
2:冨倉徳次郎・著 『平家物語全注釈』(角川書店
3:高木市之助 小澤正夫 渥美かをる 金田一春彦・校注 『日本古典文学大系 平家物語』(岩波書店
4:国民文庫刊行会・編『平家物語 附 承久記』(国民文庫刊行会)
5:麻原美子 春田宣 松尾葦江・編 『屋代本高野本対照平家物語 3』(和泉書院
6:高橋貞一・校訂 『 平家物語 百二十句本』(思文閣) 
7:北原保雄 小川栄一・編 『延慶本平家物語 本文篇上・下』(勉誠社
8:国書刊行会・編 『平家物語 長門本 巻第1-20』(国書刊行会
9:早川厚一 佐伯真一 生形貴重・校注 『四部合戦状本平家物語全釈 巻十一』(和泉書院
10:早稲田大学編輯部・編 『通俗日本全史4 源平盛衰記下 北条九代記』(早稲田大学出版部)
11:史籍研究会・編 『内閣文庫所藏史籍叢刊古代中世篇 第八巻 源平闘諍録 将門記抜書 陸奥話記』(汲古書院
12:延慶本注釈の会・編 『延慶本平家物語全注釈 第六本(巻十一)』(汲古書院
13:梶原正昭・校注 訳 『日本古典文学全集 義経記』(小学館

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