東国剣記

東国の剣豪、武芸、中世軍記、そのほか日本の合戦諸々について扱うブログです。

【『平家物語』の二刀流②】『延慶本平家物語』源行家の二刀流剣術(後)

 前回は『平家物語』諸本の中でも古態を多く残すという評価のある『延慶本平家物語』において、平家滅亡後に鎌倉方から追われる身となった源行家が、捕縛のため派遣された常陸房昌命を相手に右手に三尺一寸の太刀、左手に鍔のない太刀を持つ二刀流剣術で戦い、再三に渡って有利に攻め立てたところまで紹介しました。

 

 しかしやはり正面からの持久戦ともなれば甲冑着用で臨む昌命のほうが平服の二刀に対して有利なのか、ここからは打ち合っているうちに流れが行家不利に傾き、また更に思わぬ展開となって行きます。


■『延慶本平家物語』「第六末」(※1)
・昌明(原文ママ)しばしささへけれども、しらまず(ひるまず)打合すれば、行家こらへず、ぬり籠の内へしりへさま(後方様)に逃入ければ、昌命もつづきて入る所を、小太刀にて左の股をぬいさま(縫様)にぞ突たりける。昌命さ(刺)されて、「きたなくも引せ給物哉。出させ給へ。勝負仕らむ」と申せば、「さらばわ(和)僧そこを出よ」と云ければ、昌命「承りぬ」とて、大刀を額にあてて後さまへつとをどりの(踊り退く=飛び退く)けば、行家つづきて出て丁と切れば、昌命又むずと合ける程に、いかがしたりけむ大刀と大刀と切組たり。昌命大刀を捨て、「えたり(得たり)、をう」と組たりければ、


 「しらまず打合すれば、行家こらへず」というように打ち合っているうち行家はやがて対抗できなくなって行き、塗籠の部屋に逃げ込むことになりました。そこに昌命が追って入ろうとしたところ、待ち構えていた行家から左の股を縫うように突かれます。この小太刀は前回お話したように二刀のうちの左手の金作りの太刀と見てよさそうです。それまでサイズが説明されていなかったものの左手の三尺一寸の太刀から見て相対的に短い太刀を刺突に徹する形で用いており、状況が転じたここでもまたそれに使用したということでしょう。

 

 昌命はそのやり口を「きたなくも」となじりますが、別の部屋に逃げ込んで待ち構え入ってくるところを攻撃するとは、追われる者の必死さとはいえ実際姑息な印象の残る行動と言えるでしょう。行家自身も望ましくないと考えたのか仕切り直しに応じます。

 

 その際にやはり防御の意味合いを持つのか昌命が前回の行家と同じような「大刀を額にあてて」という構えをとりながら部屋を出て、それまでとは逆に行家の方から先手を取る形で斬りかかると、ここでどういうわけか「大刀と大刀と切組たり」という形で膠着してしまいます。

 

 「切組」は木工において製材された木材と木材が組み合わされる際の表現などに使われる言葉のようですが、『延慶本平家物語全注釈』(※2)は戦いの後に語られる両者の太刀の刃こぼれが噛み合った形という解釈を載せます。あるいは鍔競り合いのような接近戦での膠着に陥ったことの一表現と考えるべきでしょうか。いずれにしろここから『平家物語』においてはよく現れる組討ちの状況に入り、そこでついに予想外の形での決着を迎えます。


いづれもおとらぬしたたか(強い、手ごわい)人にて、上に成、下に成、つかみ合ども、勝負なかりけるに、北条の平六が付たりける大源次宗安、大なる石を取て、十郎蔵人の額をつよく打て、打破てければ、蔵人緋(あけ:流血で真っ赤になったということ)に成りて、「己は下臈なれ。あらさつなの振舞かな。弓矢取者は大刀、刀にてこそ勝負はすれ。どこなる者のつぶて(礫)を以て敵を打様やはある」と云ければ、昌命、「不覚なる者共かな。足をゆ(結)へかし」と云ければ、


 組討ちに移行してなおも続いた激戦は、上になり下になりと両者互角に争っていたところ、昌命を派遣した北条平六につけられていた従者の大源次宗安が介入し、手にした大きな石を行家の額を打つ形での幕切れとなりました。行家の「弓矢取者は大刀、刀にてこそ勝負はすれ」という抗議からは、「弓矢取る者」=武士にとって太刀や組討ち用の刀などの刀剣類もまた戦いの重要な武器であったという『延慶本』作者の認識と礫への賎視が見えます。一対一の戦いに介入したことに関しては批判はありません。昌命の「不覚」も同じ認識からでしょうが、結局行家の足を縛らせて戦いはここで終わります。戦い終わって昌命は、

 

・昌命、「山上にて多くの悪僧共と打合て候つれども、走り向には、殿の御太刀打程にはしたなき(端無:この言葉はネガティブな意味も多いが後述部分で称えていることからここでは「激しい」などの意)敵に合候わず。就中(なかんづく=特に)左の御手に差せ(刺せ)給つるが、余にいぶせく、こらへがたくこそ候つれ。さて昌命が手当をばいかが思召つる」と申ければ、「夫(それ)はつつむかへに取られなむ上は、とかく云に及ばず」とぞ云われける。「大刀み(見)む」とて、二人の大刀を取よせて見ければ、四十二所切たり。


という感想を語ります。比叡山上で多くの悪僧と打ち合ったというのは、多少の試合なども含め、打物(白兵戦)の鍛錬を重ねてきたということでしょう。後世の武芸流派とはありようも内容も違っていたでしょうが、各地から集まってきた力自慢の悪僧たちが激しく打ち合って鍛える光景を想像させます。そういった経験と比べても行家ほどの腕前には出会わなかった、特に左手の攻撃が鬱陶しくしのぎ難いものであったとまで言われます。行家の技量もさることながら、『延慶本』においても他では見られない二刀流剣術は恐らく叡山でもほとんど稽古されておらず、武装した手練れの悪僧にとっても厄介だったということでしょう。両者の太刀を見比べてみると計42か所の刃こぼれがあったとのことで、激戦を物語っています。


 ここまでで『延慶本』の二刀流の場面を一通り紹介し終えましたが、この場面を敢えて『延慶本』に限って取り上げてきた理由は古態を多く残す異本とされるからだけではありません。現在の『平家物語』のイメージの大元となっている語り本系『覚一本』の同じ場面と見比べてみましょう。なお、こちらでは『延慶本』の常陸房昌命は「常陸房正明」と表記(※下記引用外)され、文中では主に常陸房呼称です。


■『覚一本平家物語』「巻第十二」(※3)
左の手には金作の小太刀をもち、右の手には野太刀のおほきなるをもたれたり。常陸房「太刀なげさせ給へ」と申せば、蔵人大にわら(笑)はれけり。常陸房走りよ(ッ)てむずときる。ちやうどあはせておどりのく。よりあひよりのき一時ばかりぞたたかふたる。蔵人うしろなるぬりごめの内へしざりいらむとし給へば、常陸房「まさなう候。ないらせ給ひ候そ」と申せば、「行家もさこそおもへ」とて、又おどり出でてたたかふ。常陸房太刀を捨てむずとくむ(ン)でどうど臥す。上になり下になり、ころびあふ処に、大源次つ(ッ)といできたり。あまりにもあはててはいたる太刀をばぬかず、石をにぎ(ッ)て蔵人のひたいをはたとう(ッ)て打わる。蔵人大にわら(ッ)て、「をのれは下臈なれば、太刀長刀でこそ敵をばうて、つぶてにて敵をうつ様やある」。(中略)。手なみの程はいかがおもひつる」との給へば、「山上にておほくの事にあふて候に、いまだ是ほど手ごはき事にあひ候はず。よき敵三人に逢たる心ちこそし候つれ」と申。(中略)。「その太刀とりよせよ」とて見給へば、蔵人の太刀は一所もきれず、常陸房が太刀は四十二所きれたりけり。


 行家と常陸房が一対一で戦い組討ちに入るが従者の大源次が介入し、石で行家を打って戦いは終わるという内容は概ね共通に見えても、かなり簡略化された内容になっています。『延慶本』であれば具体的な戦いぶりが伺えた激闘の描写も「一時ばかりぞ戦う」との説明だけで終わり、行家が塗籠の部屋に入るのも特に理由が語られず、両者の太刀が「切組んだ」状態になったのがきっかけの『延慶本』と違い、「常陸房太刀を捨てむずとくむ」といきなり組討ちに入ってしまうなどはっきり言って全体的に流れや説明が雑です。この組討ちに至る戦いの流れに対する無頓着さは、みね打ちの記事に引いた文覚捕縛のパートとも共通しています。 

 

 また二刀の大小だけは明確になっていますが、『延慶本』で見られたような右の太刀で受け左の太刀で突くというような役割分担は見られません。戦闘後の評価でも『延慶本』のように左手の太刀の刺突が脅威であったというようなことはなく、ただよい敵三人に逢ったような心地であったというように手強さの表現も変わっています。

 

 このように行家を強者複数人に勝る武勇の持ち主として描くのは『覚一本』の他のパートでも見られます。少々長くなりますが、『延慶本』と『覚一本』の違いという点では興味深いので、室山の戦いを見てみましょう。

 

■『覚一本平家物語』「巻第八」
・平家は又木曽うたんとて、大将軍には新中納言知盛卿・本三位中将重衡、侍大将には、越中次郎兵衛盛嗣・上総五郎兵衛忠光・悪七兵衛景清・都合其勢二万余人、千余艘の舟に乗、播磨の地へおしわたりて、室山に陣をとる。十郎蔵人、平家と軍して木曽と中なをりせんとやおもひけむ、其勢五百余騎で室山へこそをしよせたれ。平家は陣を五つにはる。

・十郎蔵人今は遁るべき方もなかりければ、たばかられぬとおもひて、おもてもふらず、命もおしまず、ここを最後とせめたたかふ。平家の侍ども、「源氏の大将にくめや」とて、我さきにとすすめども、さすがに十郎蔵人にをしならべてくむ武者一騎もなかりけり。中納言のむねとたのまりたりける紀七左衛門・紀八衛門(原文ママ)・紀九郎な(ン)どいふ兵ども、そこにて皆十郎蔵人にうちとられぬ。かくして十郎蔵人、五百余騎が纔(わづか)に卅(さんじつ)騎ばかりにうちなされ、四方はみな敵なり、御方(みかた)は無勢なり、いかにしてのがるべしとは覚えねど、おもひき(ッ)て雲霞の如なる敵の中をわ(ッ)てとをる。されども我身(行家自身)は手(手傷)ををはず(負わず)、家子郎等廿余騎大略手負て、播磨国高砂より舟に乗、をしいだひて和泉国にぞ付にける。


 こちらは少数で立ち向かった行家の軍が平家方の術中に陥り包囲されるものの、命を惜しまず個人の武勇を発揮しながら脱出し彼自身は窮地を無傷で乗り切るという場面です。この際に「さすがに十郎蔵人にをしならべてくむ武者一騎もなかりけり」という平家方の武士が恐れてかかっていけないような記述があり、その後宗盛配下の複数の武将が次々かかって行っても皆討ち取られる程の武者とされています。そういった意味では常陸房が特定の細かい技術に苦しめられたというのではなく、行家一人が強者何人分にも相当する強さだったというような評価は、『覚一本』内においては一貫性があると言えるかもしれません。

 

 ちなみに『延慶本』において室山の戦いはどうかというと、

 

■『延慶本平家物語』「第四」
・平家は、門脇中納言教盛父子、本三位中将重衡を大将軍として、其勢一万余騎、播磨の室に付く。十郎蔵人三千余騎にて、室坂に行合て合戦す。平家の方には討手を五手に分つ。

・新中納言(宗盛)の侍に、紀七、紀八、紀九郎とて、兄弟三人有けるが、精兵の手聞なりけるを先として、弓勢をそろへて射させければ、面を可向様なくて、行家が勢取返ければ、平家軍兵時を造て追懸る。時の声を聞て、四陣、三陣、二々(陣)、一々(陣)の勢、山峯へ馳上て源氏の勢を待処に、四陣を破なむとす。源氏四手の勢に向て、心を一にして支へたり。行家、敵にたば(謀)かられにけりと心得て、敵に向て弓をも引かず、太刀をも抜かず、「行家に付て爰をとを(通)せや、若党」と云ままに、弓をわきにはさみ、大刀を肩に懸て通りけり。四陣破りかけ通りぬ。三陣同く懸通ぬ。二陣一々(陣)通りはてて、十郎蔵人後を顧たりければ、僅に五十余騎に成にけり。此中にも手負あまたあり。大将軍(行家)ぞ薄手もおはざりける。

 

そもそもの兵力差が前述『覚一本』では行家軍500余:平家軍2万余という約40倍差であるのに対し、こちら『延慶本』では行家軍3000余:平家軍1万余という3倍強程度で、同じ大差とは言ってもまだ戦いようがある範囲に収まっており、最初の時点で随分と違いが出ているのがわかります。

 

 そして行家は敵の策にはまって包囲されていることに気づくや、『覚一本』のように命を惜しまず戦うどころか「敵に向て弓をも引かず、太刀をも抜かず」と特に敵と交戦せず(ただしその後「大刀を肩に懸て通りけり」とある辺り駆け出す前に太刀は抜いたようです)、ひたすら敵陣を駆け抜けて脱出するだけとなっています。こちらにも登場する紀七・紀八・紀九の兄弟は一方的に源氏方に矢を射かけるのみで、『覚一本』とは違って行家と戦うこともなく、当然討ち取られてしまうこともありません。

 

 結果だけ見れば『覚一本』同様に無傷で乗り切っていますが、こちらでは武勇でというよりは詳細には描写されない家来たちの犠牲と行家の逃げ上手ぶりによってなし得たように読めてしまいます。しかも脱出前の段階で開戦時の500余騎が30騎ばかりに減っていたという前述『覚一本』に対し、こちら『延慶本』では脱出後ですが3000余騎が50余騎になるという文字通り桁違いの戦死者・脱落者を出した形になっており、行家の軍才の拙さが強調されているようです。

 

 もちろん、前回今回と紹介してきた叡山の悪僧を相手にしての二刀での奮戦と互角の組討ちを演じる場面があるわけですから『延慶本』も行家を個人としては優れた武勇を持っている人物としているわけですが、寡勢ながらも自身はよく戦ったような印象を作っている『覚一本』と比べると、合戦での戦闘においてはいいところのない人物として描きたい意図があるように思われます。


 『覚一本』の二刀の場面に戻りましょう。ほか、『延慶本』の「弓矢取者は大刀、刀にてこそ勝負はすれ」に相当する大源次への批判の言葉も、こちら『覚一本』では「をのれは下臈なれば」と「下臈だからそのようなことをしたのだな」というようなニュアンスになっている上に、使うべき武器が「太刀、刀(この時代の刀は前述のように組討ちなどに使われる短刀のこと)」ではなく「太刀長刀」とされています。

 

 刃こぼれについても42という数こそ『延慶本』と一致しているものの行家の腕前の表現なのかいい太刀で使っていたからという理由からなのか、行家のものには一か所もないのに常陸房のものは42か所切れているという随分違った結果になっている点も注目すべき相違です。「一時ばかりぞたたかふたる」という激闘の割に常陸房の方にばかり刃こぼれ42か所というのはいくらなんでも誇張が過ぎるのではないでしょうか。なお、常陸房の太刀にのみ刃こぼれ42か所というのは同じ語り本系である『城方本』(※4)も共通でした。

 

 組討ちの所でも触れましたが『覚一本』には『延慶本』と比較すると作為や不自然さが感じられる箇所があり、やはり『延慶本』的な本文が『覚一本』に先行して存在し、それを語りの台本に取り入れて作者の都合や好みに応じて情報を取捨選択し改変した結果、『覚一本』的な本文が形成されていったという解釈が自然なように思われます。細かい辻褄合わせや現実感を作るよりも、その場で聞かせる語り物としての面白さ・わかりやすさ重視という方向性が見えているのでしょうか。

 

 折角なのでもうひとつ、『延慶本』と系統が近いとされる読み本系の『長門本』も見てみましょう。こちらでは昌命は昌明と表記されます。


『長門本平家物語』「巻第十九」(※5)
・十郎蔵人は金作りの太刀左手に持ち給へり、つばは後生菩提のためとて、熊野山へ誦経にまいらせ給へり、右手には三尺五寸の大太刀ぬき持て、ぬりごめの前に立向ひたり、昌明むんずと切れば、行家丁とあはす、行家丁と切て、左の手に持たる金作りの太刀にて、づばとさし、づんとをどりのきのきする、昌明も流石太刀にこらへずあやうくおぼえけり、されども少しもおそるる事なく、ただ切に切ければ、十郎蔵人こらへずして、ぬりごめの内につと入る、昌明申けるは、きたなうも後を見せさせ給ふ物かなといふに、さらば和僧そこのけ、出んと宣へば、昌明つとをどりのく、太刀を額に当て蔵人つと出たり、昌明丁と切あはす、いかがしたりけん、太刀と太刀と切くみて、昌明太刀を投すてて得たりおうといだきたり、上に成下に成するに、大源次宗安大石をとり、十郎蔵人のひたいを丁と打わりたり、蔵人朱になりて、己は下臈なり、弓矢を取者は弓矢を持て勝負はすれ、石などにて敵をうつ事や有ると宣へば、(中略)和僧は行家を組んと思ひしかと宣へば、山上にて多くの悪僧と打組む事は候つれども、君の太刀ほどの事にはいまだあはず、就中左の御手にてささせ給へる太刀に、何に怺(こら)へがたくこそ候つれとぞ申ける、


 同じ読み本系ということで確かに『延慶本』と似た内容ですが、ある程度簡略化された形です。ただ『延慶本』ほど描写が詳しくないにしろ二刀の役割分担も見られます。左手の刺突攻撃が特に脅威であったと昌明が認める点も『延慶本』同様です。

 

 一方で、行家の右手の太刀が三尺五寸となっており『延慶本』の三尺一寸よりも長大化している、昌明が塗籠の部屋に入る行家を追わないので当然その際に刺突の奇襲を受けることがない、その塗籠の部屋から出てくる所では『延慶本』とは逆に行家の方が「太刀を額に当て」た構えを取っている、等細かな違いも少なからず見られます。

 

 また、行家が大源次が石で打ったことを批判する理由の「弓矢を取者は弓矢を持て勝負はすれ」というのも、『平家物語』においては名のある武士たちによって盛んに太刀打ち組討ちが行われる上、自身も今まで白兵戦で戦っていたのに自分たちを含むはずの「弓矢を取者」の武器を弓矢に限定してしまうのはおかしな話です。しかも上下が目まぐるしく入れ替わることが描写されている組討ちの援護に弓矢というのは果たして向いているのでしょうか。ここは「弓矢を取者」という『長門本』以前から元になった本文内にあったであろう言葉の原義に縛られ過ぎて、状況も辻褄も合わない武器を選んでしまったように思われてしまいます。


 以上、義経の水夫攻撃の記事などでも触れましたが一口に『平家物語』と言ってもこれだけバラエティのある異本が伝わっているわけですから、内容に触れる際には諸本のうちのどれからの引用なのか注意が必要です。

 

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 ということで、前回・今回と『延慶本平家物語』に登場する二刀流剣術についてお話ししました。延慶2(1309)年・同3年書写のものを、応永26(1419)年・同27年に写したとされ、議論はあるにしても『平家物語』諸本の中でも古態を多く残すとされる『延慶本』に左右の太刀に受けと突きの役割分担がある二刀流剣術が現れるというのは、武芸史上においても重要なのではないでしょうか。

 

 なお、『平家物語』には他にも薙刀と太刀を片手ずつに持つという変則的な二刀使用が登場します。こちらは主に『覚一本』を中心に他の『平家』諸本との比較を交えながら近世の武芸伝書も見ていくという形で後日お話しましょう。


 他にも行家や新田義貞が当該場面で二刀を用いなかったと描写している『平家物語』『太平記』の異本の情報や、本記事にも登場した中世における小太刀という用語の意味合いが現代人のイメージからかなりズレることもある件、「弓矢取者は大刀、刀にてこそ勝負はすれ。どこなる者のつぶてを以て敵を打様やはある」という行家の批判に関連した平安・鎌倉時代の礫についてなど、ここで扱った話題の補足も個別に記事を作って検討したいと思います。


引用元・参考文献
1:北原保雄 小川栄一・編 『延慶本平家物語 本文篇上・下』(勉誠社
2:延慶本注釈の会・編 『延慶本平家物語全注釈 第六末(巻十二)』(汲古書院
3:高木市之助 小澤正夫 渥美かをる 金田一春彦・校注 『日本古典文学大系 平家物語』(岩波書店
4:国民文庫刊行会・編『平家物語 附 承久記』(国民文庫刊行会)
5:国書刊行会・編 『平家物語 長門本 巻第1-20』(国書刊行会