東国剣記

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【『平家物語』の二刀流・補】行家や義貞が二刀を用いるとしない『平家物語』『太平記』の異本

 これまでの【『平家物語』の二刀流】では『延慶本』や『覚一本』などの『平家物語』において源行家が二刀流で戦う場面があることや、それに関連して『太平記』において新田義貞が二刀を用いる場面があることを紹介しました。

 

 しかし『平家物語』の一部語り本系では行家が二刀で戦ったと書かないものがあり、また同様に『太平記』古態本の一つには湊川新田義貞が敵の弓兵に包囲された場面において一刀のみを用いると描くものもあります。今回は【平家物語の二刀流剣術】の補足としてそれらを紹介していきましょう。


 ではまずは行家の方から紹介しましょう。以前の記事の通り、『平家物語』の『延慶本』や『覚一本』などにおいては壇ノ浦合戦後に義経と並んで鎌倉方の討伐対象となった源行家が、追手の常陸房昌命(正明)と戦闘になり二刀流剣術で抵抗する場面があります。

 

■『延慶本平家物語』「第六末」(※1)
・昌命は大刀打付たる黒革綴の腹巻に、左右の小手指して、三枚甲きて、三尺五寸ある大刀をぞはきたりける。行家は白直垂小袴に、打烏帽子にえぼしあげして、右の手に大刀を抜き、左手に金作の大刀のつばもなきを抜て額にあてて、ぬりごめの前にて待懸たり。

 

■『覚一本平家物語』(※2)
・左の手には金作の小太刀をもち、右の手には野太刀のおほきなるをもたれたり。

 

 しかし数多ある『平家物語』の異本には全てがこのような二刀描写を記すかというと実はそうでなく、例えば後に主流となった『覚一本』の一方流とは別の平家語りの流派である城方(八坂)流の『城方本』は、以下のように特に二刀での戦闘とは記しません。

 

■『城方本平家物語』(※3) 

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1087779/292

下人の男共をば かしこ爰(ここ)に かくしおき 我身は 重目結の直垂に 桾(ふし)縄目の鎧を着 大太刀を ぬいて 切て入 十郎蔵人 此由を 見給ひて いかに あれは 常陸坊と 見るは 僻目かと 宣へば 正明候とて 切て かかる 十郎蔵人 そばなる 太刀 おつとり ぬきあはせ 散々に 戦はれけるが 人手に かからじとや 思はれけん 障子の内に 引籠り給へば 正明 まさなや 御自害候か たすけ申さんずる 物をとて 太刀をなげすて つつと入て むずとくむ 十郎蔵人も つよし 常陸坊も つよかりければ 互に うへになり 下になり ころびあふ所を 爰(ここ)かしこに かくしおきたりける 下人の男共 はせあつまつて 上なる 常陸坊が足に 縄をぞ かけたりける こはいかに 味方に縄かくる やうや あると いはれて さる事 候とて ふたりが 足に 縄をぞ かけたりける 其後十郎蔵人殿をば 手とり 足とり もと取 とり生捕にこそ したりけれ 其後 互に 息ついて おはしけるが ふたりの太刀を 召よせ み給へば 常陸坊が 太刀は 四十二所まで きられたりけれ共 十郎蔵人の太刀は 一所も きれず なんぼう行家は ふるまうたるぞと 宣へば 正明 いまだ 是程 手ごき 御敵には あひ参らせず候とぞ 申ける


 このようにこちらでは「そばなる 太刀 おつとり ぬきあはせ」と傍らにあった太刀を取って戦うとあるだけで、特に二刀での戦いとは描写されておりません。「ぬきあはせ 散々に 戦はれけるが」とある辺りそれなりに奮戦はしたようですが具体的な戦いぶりもよくわからず、組討ちに入るのも不利を悟ったのか行家が障子の内で自害しようとしたところに常陸坊が止めに入ったからということになります。

 

 ほか、大源次宗安に相当する特定の小者がおらず、最初から隠し置いていた下人の男共という複数が縄で捕縛に入ることで戦闘が終了するという点は『延慶本』『覚一本』などとは全く異なる一方で、戦いの後に十郎蔵人の太刀には傷がなく常陸坊の太刀にのみ42か所刃こぼれがあるというのは『覚一本』と共通でした。

 

 ほかにも、かつては城方(八坂)流の古本とされ今は城方流と一方流の性格を併せ持つ語り本という扱いの『屋代本』近縁の『百二十句本』にも特に二刀を用いたとは書かれておりません。

■『百二十句本平家物語』「巻十二」(※4)
・しやうめいくろかはおどしのはらまきに、四しやく二寸のたちをぬきとんでいる。おとこにげゆくを、ひたちばうをつかくる。これはゆきいゑのらうどう也。十郎くらんどこれを見て、ゆきいゑはわれなるぞ。かへそとの給へば、ひたちばうとつてかへす。くらんどくさずりのはづれをきられければ、かなはじとやおもひけん、たちをすててむずとくむ。たがひに大ぢから、しうぶなかりしに、大げんじむねやす、つぶせ(て)にてちやうどうつ。下らうなればとてさるためしやあるとの給へば、あしになはをかくるとて、あまりにあはてて二人が四ツのあしをぞゆふたりける。御ぼうはよりともがつかひか、ほうぢうかつかひかととはれけるこそしんめうなれ。

 二刀を用いるとは書かれていない点こそ『城方本』と共通ですが、鎌倉軍記の大太刀の上限とされる三尺五寸を大きく超えた四尺二寸という常陸房の太刀の刃渡りが示されている点、「散々に 戦はれけるが」と太刀打ちの段階で奮闘の様子を伝える『城方本』に対しまともな太刀打ちの描写すらない上に「くらんどくさずりのはづれをきられければ」とあるだけでさっさと組討ちに入ってしまう点、その「くさずり」の記述を見る限りこちらでは行家が鎧を着ているらしい点、『延慶本』『覚一本』などと同じように「大げんじむねやす」が介入して終わる点、その介入に礫が使われ『覚一本』に近い言い回しの「下らうなれば」という批判がある点など、それ以外では実はあまり似ておりません。

 

 この『城方本』『百二十句本』の行家捕縛パートは、それぞれがある点で『覚一本』に似ていてまたある点では違っているという関係であり、ここに限って言えばどちらかがどちらかを参考にしたと言いにくいように思われます。各々の作者が行家捕縛の際に二刀描写を語ることはないと判断した結果として、両者たまたまこの形に落ち着いたという関係かもしれません。『延慶本』『覚一本』『長門本』の二刀の起源が一つに遡れそうな共通点を持っているのとは対照的と言えるでしょうか。そういう意味ではやはり想定される祖本『平家物語』においては行家が二刀を振るっていた可能性が高そうです。

 

 なお、『源平盛衰記』も国会図書館デジタルライブラリーで本文を参照できますが、行家捕縛のパートが存在しないので検討対象外となりました。

 


 さて、次は『太平記』の新田義貞の件に移りましょう。こちらは以前の記事でも触れましたが、下記のように二刀を用いた攻撃ではなく周りから射かけられる矢を防ぐことのみに二刀が使用されます。

■『天正太平記』「巻十六」(※5)
・ただ十方より矢衾を作って射ける間、その矢雨の如くなりにけり。されども義貞は薄金といふ鎧に、鬼切・鬼丸とて源家累代の重宝を二振帯かれたりけるを抜き持つて、降る矢をば飛び越え、揚る矢をば指しうつぶき、真中に中る矢をば切つて落とされける間、その身は恙(つつが)もなかりけり。

 この『天正本』以降の初期の流布本である『元和本』の一種を『通俗日本全史』で確認することができますが、こちらで同じ場面を見てみると、

■『元和本太平記』(※6)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/770203/162
・十方より遠矢に射ける矢、雨や雹の降るよりも猶繁し、義貞は薄金と云ふ甲に、鬼切鬼丸とて、多田満仲より伝はりたる、源氏重代の太刀を二振帯かれたりけるを、左右の手に抜持ちて、さがる矢をば飛越え、あがる矢にはさしうつぶき、真中を指して射る矢をば、二振の太刀を相交へて、十六までぞ落されける、其有様、譬へば、多聞、持国、増長、広目の四天、須弥の四方にすんで、同時に放つ矢を、捷疾鬼と云ふ鬼走廻つて、未だ其矢の大海に落著かざる前に、四の矢を取つて返るらんも、角やと覚ゆる計り也、

天正本』とは基本的に共通ながら、十方から射かけられる矢が「矢衾」ではなく雨や雹に例えられる点、矢を十六度まで切り落とすという回数が示される点、義貞が矢を回避する姿が須弥山の四方から四天王が射た矢をすべて避ける捷疾鬼という素早い鬼に例えられる点など、時代が少し下ってより大げさな表現に変貌したという印象になっています。慶長以降の流布本の一種ということで『天正本』よりはこちらを一般的な『太平記』のイメージと見た方がよさそうです。

 

 しかしこれが古い形の『太平記』の一種である『西源院本』は違った形で矢を防ぐことになります。岩波文庫版『太平記』四巻(※7)解説によると、『西源院本』とは、現在に伝わるものは大永・天文辺りの書写であるが、内容自体は室町時代前期・応永二十八年以前のものを伝えていると考えられるという『太平記』古態本の一つです。

■『西源院本太平記』「巻十六」(※8)
・ただ十方より矢ぶすまを作つて、遠矢に射ける間、その矢雨の如くなり。しかれども、義貞は、薄金と云ふ塁代の甲を着、鬼切と云ふ相伝の太刀を抜いて、甲突き(よろいづき)を隙間なく揺り合はせ、或いは立つ矢射向に受け留め、或いは来たる矢を鬼切にて払ひ切りに切つて落とされければ、身には恙もなかりけり。

 こちらではこのように抜き放っているのが鬼切の一刀のみとなっています。また、飛んだり身を低くしたりで矢を避ける描写もなく全体的には鎧に頼っている印象が大きいのも特徴です。同じように太刀で矢を切り落とすという誇張はまだ見られるとはいえ、『元和本』に現れるような飛んだり身を低くしたり十六回も二刀で切り落としたりで危機を脱するという描写よりは大分リアリティを感じさせます。

 

 「甲(よろい)突き」は「鎧を揺すって札(さね)の透き間をなくす動作」で、「射向」は鎧の左肩についた射向の袖のこと。射向の袖を楯代わりに使うことは『太平記』の随所に見られるほか、このような矢を意識した鎧の使い方・動かし方は前代の軍記物である『平家物語』諸本に出てきます。代表として『延慶本』の一ノ谷合戦の場面からから引いておきましょう。

■『延慶本平家物語』「第五本」
・熊谷が馬の太腹を射させて駻(はね)落されて、しころを傾、弓杖をつき、(中略)。矢は甲のしころを傾て、鎧の袖を振合振合ぞ射せける。熊谷、子息直家に云けるは、「敵寄ればとてさわぐな。鎧の射向の袖を甲のまかうにあてよ。あきまをを(惜)しめ。ゆり合ゆり合して常に鎧づきせよ。はたら(動)かで立て鎧に裏かかす(矢を貫通させる)な」とぞ云ける。

 『西源院本』における義貞はこのような『平家物語』の故実に通じる形で矢に対処しているわけです。しかしながらこれをもって『太平記』における義貞のこの場面は本来一刀であったと言える程簡単ではありません。例えば別の古態本である『神田本』においては、

■『神田本太平記』「巻十六」(※9)
・十方より矢ぶすまヲ作て射る矢雨ノふるがごとく也。され共義貞ハ薄金と云フ鎧ニ鬼切鬼丸とて、多田ノ満仲より伝つて源家累代ノ重宝ヲ二腰はかれたりけるヲ抜持て十方より射ける矢ヲ一々ニ切て落されける間、身ニハ一ツもたたざりけり。

と、後世のもののような飛んだりうつむいたりでの回避はないにしろ二刀を抜き放って対処する形になっており、『西源院本』の記述ひとつを根拠に古い形の『太平記』では義貞は一刀であったと言えなくなっています。

 

 加えて、古本系の巻三十二に相当する部分のみ伝わるという断片的な伝来ながら『太平記』中最も書写年代が古いとされる『永和本』が、その部分だけを比較する限り『西源院本』『神田本』とは別系統の本文を持つために『太平記』は成立直後の段階で既に複数系統のテキストがあったという説が出されているなど、何をもって”本来の『太平記』”とすべきなのかと言う問題まであります。

 

 従って現状では内容が室町時代前期応永年間に遡り得ると考えられる『西源院本』に載っているからと言って、オリジナルと言えるような段階の『太平記』においても義貞は湊川において一刀を用いて矢に対処した、と断定することはできません。ただ、『西源院本』は2010年代に刊行された新しい岩波文庫版『太平記』の底本とされたということもあり、一刀版の逸話が主流とはなり得ないまでも人目に触れる機会も多くなり、以前より知られていくのではないかと思います。


 ということで【平家物語の二刀流剣術】補足として当該場面で二刀を用いることがない『平家物語』『太平記』異本の紹介でした。

 

引用元・参考文献
1:北原保雄 小川栄一・編 『延慶本平家物語 本文篇上・下』(勉誠社
2:高木市之助 小澤正夫 渥美かをる 金田一春彦・校注 『日本古典文学大系 平家物語』(岩波書店
3:国民文庫刊行会・編 『平家物語 附 承久記』(国民文庫刊行会)
4:高橋貞一・校訂 『 平家物語 百二十句本』(思文閣
5:長谷川端・校注 訳 『新編日本文学全集 太平記②』(小学館
6:早稲田大学編輯部・編 『通俗日本全史5 太平記 上』(早稲田大学出版部)
7:兵藤裕己・校注 『太平記(四)』(岩波書店
8:兵藤裕己・校注 『太平記(三)』(岩波書店
9:黒川眞道 矢野太郎 馬瀬長松 友年亀三郎・校注 『太平記神田本 全』(国書刊行会