東国剣記

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【日本の投げ槍2】槍を投げた槍半蔵 ~戦国三河武士たちの投げ槍~ 付足・槍半蔵の太刀打ち

tougoku-kenki.hatenablog.com

 前回は江戸期軍学文献における犬槍という観念や投げ槍批判と読める箇所について紹介しました。今回は戦国生まれの三河武士たちが残した文献から、投げ槍に対する認識を見て行きましょう。これからの内容は戦国武士は投げ槍を不作法として行わなかったという先入観を極力捨てて、ニュートラルな視点から読まれることをお勧めします。何しろ前回確認したように、江戸期の甲州流軍学でさえテキストによっては槍の投げ突きという行為そのものは問題視していない見解が見えるくらいです(そのケースで問題となるのは投げ突きを勇猛な槍の手柄として誇る場合)。折角戦国生まれで合戦でも活躍した武士たちの認識や価値観を伺うことのできる史料があるのに、余計なフィルターを介して見てしまうこともないでしょう。

 

 まずは戦国時代を生きた大久保彦左衛門忠教の自筆本が残る『三河物語』からです。概要については以下の通り。

世界大百科事典 第2版「三河物語」の解説
kotobank.jpみかわものがたり【三河物語
江戸幕府の旗本大久保彦左衛門忠教が子孫に書き残した自伝。上中下の3巻から成る。松平氏の発祥から徳川家康が天下をとり東照権現としてまつられるまでの過程で,大久保一族の忠勤と自身の活躍を述べたもの。とくに彦左衛門16歳の初陣以降の叙述は,名文ではないが具体的で臨場感にあふれている。本家大久保忠隣(ただちか)の改易以来,主君から冷遇されていた大久保一族の不遇をなげきながらも,将軍への忠勤を子孫に説くなど,当時の武士の思想や世界観を知る上での好史料である。

 戦国武士による自筆本が残る大著だけあって、初陣以降の体験に基づくパートは「具体的で臨場感にあふれている」と非常に高く評価されています。ただし今回取り扱う投げ槍に関する箇所はいずれも彦左衛門が戦場に出るようになる以前の時代のことなので、残念ながら上で言われる臨場感にあふれているパートではありません。

 

 かといって大久保一族の年長者や三河武士の先輩が情報源となっていたことが考えられるので満更全てが無価値という訳でもなく、ある程度の参考には使えそうです。ここは事実かどうかを問題にするよりも、上の解説にあるような「当時の武士の思想や世界観を知る上での好史料」として、戦国武士であったところの著者大久保彦左衛門の認識を見ることに重点を置きたいと思います。

 

 まずは家康の祖父・清康の時代に行われた投げ槍の記述を見てみましょう。清康らが東三河の牧野信成を攻めた際の戦いで両軍により槍を投げ入れるという戦術が行われます。

■『三河物語』(※1)
・清康(松平清康)と内前(松平内膳信定)と、敵之中え懸入懸入、下知をなし給ゑば、何れも是に勢ひて、塘(つつみ)ゑ懸上、鑓を互に投げ入るより、其儘突きくづして、河ゑ追いはめけり。
 伝蔵(牧野伝蔵信成)兄弟四人、是を見、突立ければ、何れも負じと立て、鑓を投げ入ければ、清康方負にけり。然共、清康之御旗本が勝て、吉田河ゑ追ひはめ候故、清康と内前、跡より懸らせ給ゑば、なじかはたまるべき哉。伝蔵・伝次・新次・新蔵兄弟四人打取る。

 高所に登ってそこから槍を投げ入れるというのは、一般的な日本の合戦のイメージとは異なるかもしれません。しかし大坂の陣の投げ槍を扱う記事で触れることになりますが、同戦役についてのイエズス会の『日本年報』において大坂城に籠る豊臣方が高所から空堀内の徳川方に対して槍などを投げ込むという戦術の記述があるため、全くないとも言えない話です。清康らの件に関しては確認のしようもないので真偽については保留、あるともないとも言えないという程度に見ておきます。

 

 注目したいのはこの槍を投げ込む行為に対する著者の認識です。こちらはどう見ても淡々と出来事を語るのみで、作法知らずなど批判的なニュアンスが一切ありません。清康の下知に従った者たちはもちろん、敵方の牧野伝蔵に対してもです。槍を投げる行為に関して犬槍などという言葉も現れませんでした。


 続いて『三河物語』のもう一つ投げ槍を見てみましょう。こちらは家康の時代の三河一向一揆の記述で、後世徳川十六(神)将の一人にも数えられたという武勇の士である蜂屋(八屋)半之丞による投げ突きのエピソードです。まず半之丞がどういった人物として描かれているかを本文中から見てみましょう。

■『三河物語
・半之丞と申は、勢〔背〕かし高にして、力の強ければ、白樫の三間柄を中太によらせて、長吉之見〔身〕の四寸計なるを研ぎ上にして、紙を吹き懸て、さつさつと通るを、えりはめて持つ。然間、長柄之持鑓も、少なり共錆の浮きたる事は無。
 去間、「半之丞が鑓先に誰か向はん」と、独ごとを云ける者なり。

 このように体が大きく力が強く、太く長い白樫の柄によく手入れされた鋭い穂先の長槍を扱う剛の者として紹介されています。「半之丞が鑓先に誰か向はん」などと一人ごち、いかにも槍の功名を重視しそうな人物ですが、こちらの半之丞がその槍で投げ突きを行うのです。


■『三河物語
・然間、半之丞は、其より野え上て退く処え、上様(家康)懸付させられて、「八屋め、返(かえせ)」と被仰ければ、心得たりとて、返て見てあれば、上様にて有ければ、取つて戻し、鑓を引ずりて、頭を傾て虚空三宝に逃行処え、松平金助殿懸付て、「八幡、半之丞返(かえせ)」と仰ければ、取て返て、「殿様なれば社(こそ)逃たれか、御身立〔達〕にか」とて帰〔返〕して、金助殿も八屋も、互に鑓を突き合て、五度六度合給ふが、力の強き者が樫之三間柄を石付を取て突立れば、かなはじと思召、鑓を引抜て後ゑしさり給ふ所え、踏こみて投突にしければ、金助殿後より前へ、鯨に銛を立たるごとくに突立けり。走り寄て鑓を引抜ける処え、又上様懸付させられ給ひて「八屋め」と被仰候を聞きて、又鑓を引ずりて、跡も見ずして逃げにけり。上様も御帰り被成て、「八屋めが、我にも逃げん奴にはあらね共、我を見て逃げける」と御意被成、御機嫌能(よし)。


 一揆方に属した八屋(蜂屋)半之丞は、戦場で戻ってこいと呼びかけたのが家康であると知ると気まずそうに去ろうとしますが、家康方の松平金助という人物が呼び止めると今度は「殿様だからこそ逃げたのだ、誰がお前らなどから逃げるか」と引き返しその金助との槍合いを開始します。呼び止めたものの半之丞が豪勇で振るう長槍には勝ち目がなく金助が不利を悟って逃げ出すと、半之丞は彼の背中めがけて槍を投げつけ、鯨に銛を突き立てたようにして討ち取りました。投げ突きにした槍を引き抜く描写があった後は、半之丞が家康の声を聞いて再び気まずそうに逃げ、一揆側に身を投じてもなお自分に対する忠誠心があると見た家康が上機嫌になるというところが重点的に語られます。

 

 こちらも彦左衛門が実見した出来事ではなく、実際三間柄の槍でそれほど威力のある投げ突きをすることが果たして可能なのかどうかはわかりません。やはり清康の時代のケースと同様事実かどうかはおいておくとして認識について問題にしたいところですが、見ての通り語り手の筆者大久保彦左衛門も文中の家康も、半之丞の槍の投げ突きという行為については特に言及することはありません。当然批判的な見方や犬槍という文言も見られませんでした。

 

 それでは、著者大久保彦左衛門は戦法や軍功の基準に関して全く意見を表明しない人物かと言うと、むしろ真逆です。それについては大坂の陣についての記述から見てみましょう。

■『三河物語
・昔は出家や医者などを武辺之証人に立たる人をば、中々付合もせざれ共、今之世は末世にも成か。出家と医者が武辺之脈とり、又はさつしれば、武辺に成と見へたり。又は度々の武辺之したる者を、昔は武辺之証人には立有に、一代之内、敵之顔の赤きも黒きも知らざる者を武辺之証人に立る事、腹筋之痛きほどおかしき事なり。
・又ここに、只今はおもしろき事を云。兜を着たる者の頸を取ては、もぎ付と云事、昔はなければ、只今聞く。当世流か。昔は小者・中間・不丸之頸なり共、押つ押つ之処にての頸か、又は鑓下之頸か、深入をして打たる頸などの、手柄なる処にて取頸は、何頸にてもあれ、手柄と云たり。
・今度は、始めより崩れたる敵なれば、各々馬にて追ひかけければ、何時もか様に馬に乗りて合戦は可有と計、当世之衆は心得候らへ共、合戦之時は、皆々馬より追下して馬をば後備より遥かに遠くやる物とは知らずして、何時も馬に乗りてあらんと計(ばかり)云も、はかなき事なり。


 出家や医者など武辺者以外を証人にしてしまうなど世も末だとか、もぎ付などという彼にとっては耳慣れない言葉や崩れた敵を追い討ちすることで得られる功名に対してなど、その批判は微に入り細を穿つというほどで、彼からすると無知な連中とみなす「当世之衆」、そのやり方である「当世流」への排撃は執拗なほどです。

 

 戦術に関しても彦左衛門の時代の三河の戦闘は「皆々馬より追下して、馬をば後備より遥かに遠くやる」という形で徒歩化していたので、崩れた敵に対して馬に乗ったまま追撃してしまう当世の武士たちに対する批判は痛烈です(これは逆にいうと当時の馬でも騎乗戦闘自体は可能であり、大坂の陣で行われたことを示唆しています)。

 

 これらを見る限り、大久保彦左衛門という人の中には確固たる功名の基準があってそこから外れたことについては黙っていられず、戦術についても自分が非と見ることについては痛烈に批判する人物であるとわかります。その彦左衛門が先人の槍の投げ突きを記している上、特に感想も苦言も呈さない、これは少なくとも彼が見聞きしてきた戦国三河や徳川家中心の範囲においては投げ槍が不作法ではなかったことの証明でしょう。


 『三河物語』はここまでにして、今度は槍半蔵として有名な渡辺守綱の戦話が記された『渡辺忠右衛門覚書』に移りましょう。こちらは以下のような史料となります。

■『愛知県史 資料編14』(※2)
8 渡辺忠右衛門覚書(わたなべちゅうえもんおぼえがき)
徳川家康に仕えた渡辺守綱(通称半蔵、一五四二~一六二〇)の、永禄三年(一五六〇)五月桶狭間の戦い直後の緒川・刈谷合戦から天正十二年(一五八四)小牧・長久手の戦いに至る間の武功を、その子重綱(忠右衛門)がまとめた史書。本文末尾において重綱は、以上の他にも方々の戦場において晴れがましいこともあると述べ、<「其身抽出たる儀と」(本人際立った武功があったと)「はなし不申候故」書き付けていない>と記している。本書情報源が父の「はなし」であることが明記されている鑓半蔵として知られた守綱の、本人目線に立った臨場感あふれるその記述は、おそらく重綱が幾度となく繰り返し聞かされた守綱自身による戦場語り・武功語りの語り口を踏襲したものである。成立年を示す記述はないが、重綱没年の慶安元年(一六四八)以前であるのは当然で、恐らく幕府による「寛永諸家系図伝」編纂に伴って作成されたものと考えられる。

 渡辺重綱という人物については以下参照。

デジタル版 日本人名大辞典+Plus「渡辺重綱」の解説
kotobank.jp1574-1648 織豊-江戸時代前期の武士。
天正(てんしょう)2年生まれ渡辺守綱(もりつな)の長男。15歳で徳川家康につかえ,小田原攻め,関ケ原の戦いなどで功をたてる。父とともに徳川義直(よしなお)にしたがい,寛永18年尾張(おわり)名古屋藩家老となる。慶安元年10月1日死去。75歳。通称は半蔵,忠右衛門。 

 語り手はその渡辺忠右衛門重綱ですが、語られる内容は槍半蔵として有名な父守綱の軍功であること、その情報源は父の戦語りであること、本人から聞いていない武功については語っていない、とのことです。いずれにしても戦国生まれの武士の認識が見られることは間違いないこちらの史料から、投げ槍についての記述とそれに対する認識を見てみましょう。

■『渡辺忠右衛門覚書』(※2)
・大久保与一郎(忠益)城内より懸出候、半蔵鑓にてむかひけれは、与一郎不叶(かなわず)して木戸口指て引退く、半蔵追懸、なけつき(投突)につき申候されとも身にはあたらす城内へ引入候、其より半蔵寺内へ引返し候、其後 殿様(家康)岡崎より寺内へ御働被成刻、…


 父の戦語りのみを情報源としたというこの覚書において、ごらんのように槍半蔵として知られた守綱の槍の投げ突きについての記述が見られました。逃げる相手に対して投げつけるのは蜂屋半之丞と共通ですが、こちらは当て損ねています。

 

 「身にはあたらす城内へ引入候」「其より半蔵寺内へ引返し候」と両者がそれぞれの拠点に引き返した後は「其後 殿様(家康)岡崎より寺内へ御働被成刻」と場面が切り替わってしまい、投げ突きがあったことに対しては特に感想は記されません。『三河物語』同様、不名誉な行動、不作法を行ったような認識が無いわけです。

 

 「本人目線に立った臨場感あふれるその記述」「戦場語り・武功語りの語り口を踏襲したものである」という解説の通りであれば、槍半蔵自身にもその認識はなかったことになります。三河を代表する槍の武士の一人である渡辺半蔵でさえこの通りであり、そうでなくてもこれを覚書の形にした渡辺忠右衛門重綱という天正生まれで合戦の経験がある武士も、特に不作法とも思わず書き記したことになります。

 

 ところで、この三渡辺半蔵と『三河物語』のところでお話した蜂屋半之丞の両人は共に三河一向一揆側に身を投じていました。主家を離れ一揆方に属しているのだから武士としてのモラルは捨てているのではないか、そう考える人もいるかもしれません。しかし以下の記述を見てください。これは先程の投げ突きから続く場面になります。意味を取りやすくするため『寛永諸家系図伝』の同じ出来事を扱った箇所も持ってきました。また、両方とも渡辺半蔵が槍以外の武器の扱いも長けていたことを示すため少々長めに引用します。

 

■『渡辺忠右衛門覚書』
・其後 殿様(家康)岡崎より寺内へ御働被成刻、中根喜蔵(利重)と一揆方之者鑓を合候、其前蜂屋半丞(貞次)・矢田作十郎(助吉)・筧助大夫(正重)・渡辺半蔵、其外武剛之者共寄合、誰ニ而も一番鑓合候ハハ、重而鑓にてハ無面白(目)候、刀にて勝負可仕由申ニ付而、半蔵刀にて鑓下へくくりこミ喜蔵を一刀切申候、喜蔵鑓を捨刀を抜候所を又一刀きり候へは、喜蔵請太刀に成申候処へ、鵜殿十郎三郎(長祐)と名乗向、十郎三郎無隠剛之者に而候間、押籠喜蔵すねをなぎ、二陣之味方に討候へと申すて、十郎三郎と渡し合相切にきる、十郎三郎太刀半蔵うてへ当り申候、十郎三郎をは切たほし首を取らんといたし候へは、味方ばひ(奪)申候間とられしと仕所に、岡崎勢懸向申に付ばひね立退申候、又首をとらんと仕所にうしろより川澄文助鑓に而つき申候、文助見しりかへしこたへ候へと言葉をかけ、刀に而かかり候へは引退申し候、…
■『寛永諸家系図伝』「渡辺守綱」(※3)
・大権現針崎御出馬の時、中根喜蔵一揆の輩と鑓を合す、守綱鑓下に走入、太刀をもつて中根を切、中根鑓をすて、太刀を抜て切合、これより先矢田作十郎・蜂屋半丞・筧助太夫其外勇士相集ていはく、をよそ戦場にをひて一番鑓の者有時ハ、二番鑓はめずらしからず、太刀をもつて切崩すべし、かるがゆへに太刀をもちゆ、時に鵜殿十郎三郎(長祐)名乗かかる、守綱これを見て中根が足をなぎ走出、鵜殿と切合、守綱疵をかうふるといへども、遂に鵜殿を切たをし、其首をとらんとする所に、河澄文助うしろより来り、鑓をもつて是をつく守綱太刀をもつて是にむかふ、河澄引退、…


 三河一向一揆の時期に渡辺半蔵だけでなく先程『三河物語』に登場した蜂屋半之丞含め剛の者たちがそろって一番槍になり損ねたことがあったようで、このまま槍で戦いありふれた二番槍になってしまうのであればと、渡辺半蔵は刀を選択しました。一番槍の功名に対する強い執着とそれ以外の槍には価値を見出さない強烈な功名意識が伺えます。一揆勢に身を投じていてもこれほどの執着心で槍を扱う人物が、果たして不作法を承知の戦闘手段など使うものでしょうか。

 

 とはいえまんざら勝算なく自暴自棄で刀を手にしたわけではなく、槍を手にした敵の中根喜蔵を刀で追い詰めるほど有利に戦い、割って入ってきた鵜殿十郎三郎という剛の者を太刀打ちの勝負で倒し、更にまた槍で突いてきた川澄文助を刀で撃退したという記述を見る限り、槍半蔵として知られる渡辺守綱は太刀打ちにおいても実戦の強者であったようです。

 

 そして同様の理由から太刀打ちを選択するのは『三河物語』の蜂屋半之丞の最期の場面でも見られます。こちらは既に許されて徳川に帰参した後のことなので一揆とは何も関係ありません。

■『三河物語
・八屋聞て、「人が鑓をしたらば、我は切相(きりあう)迄よ半之丞が二番鑓をしたると云はれては、うれ敷も無。鑓は勿(もち)て来るな」と云て、勿(もた)せず。然処に、鑓脇に抜放て居たる者を、犇(はしり)入て二人切伏せて、

 これらを踏まえると、一向一揆に身を投じていると言っても彼らの槍の功名に対する意識・価値観は家康の元にいた時と特に変わりなかったと見てよさそうです。


 『三河物語』の大久保彦左衛門忠教も、『渡辺忠右衛門覚書』に父の事績を記した渡辺忠右衛門重綱も、共に天正年間以降に家康の家臣としての戦闘経験のある戦乱の時代の武士たちです。にも関わらず今回紹介したいずれの場合も、槍の投げ突きを作法知らずだとか、武士にとって不作法だとか、不名誉などというような批判をする様子は一切ありませんでした。両文献の認識・価値観から見て、戦国三河武士の間では投げ突きの槍は別段不作法とされるようなものではなかったと言えるでしょう。

 

 しかし、大久保彦左衛門が激烈な調子で武士の感覚や軍功の基準の変化を批判した大坂の陣の時期においては投げ槍も不作法・不名誉とされるようになったのではないか、そう考える人もいるかもしれません。ですが、その大坂の陣において家康・秀忠から働きを褒賞され直々に「感状」を得た武士は、その時の戦闘の一つにおいて敵に対して槍の投げ突きを行っています。そしてそれは後年幕府によって編纂された公式の史書徳川実紀』「台徳院御実紀巻三十三」においても特に批判のニュアンスもなく掲載されているのです。

 

 ということで次回は「大坂の陣の投げ槍」と題した記事になります。三河武士以外の投げ槍を確認しましょう。

 

引用元・参考文献:
1:斎木一馬 岡山泰四 相良亨・校注 『三河物語 葉隠』(岩波書店
2:愛知県史編さん委員会・編 『愛知県史 資料編14』(愛知県)
3:愛知県史編さん委員会・編 『愛知県史 資料編11』(愛知県)