東国剣記

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【戦国負傷統計を見直す3】戦国時代申告された石礫傷はほとんどが城・高所に関連するものと確認(後)

tougoku-kenki.hatenablog.com

 

 戦国時代の全石礫傷の内訳を公開する記事の後半です。タイトルで結果は明らかにしてしまっていますが、高低差の確認できない石礫傷の割合が最終的に何%になるかは楽しみにしていてください。

 

 さて、第一回第二回で扱った石礫傷の採取元は、すべてが中国地方の勢力に申告されたものであるという偏りを持っていました。今回の分はというと、永禄6年を最後に毛利氏や中国地方の勢力での石礫傷の申告はなくなるものの、それに代わって隣接する支配領域を持ち毛利氏と幾度も鉾を交ている大友家中での申告ばかりになります。

 

 結局日本全国の石傷などはデータの上からは確認できず、戦国時代の石礫傷の全統計と言いながら中身は中国地方と北部九州の勢力のみから申告されたものだけだったということです。しかもそのほとんどがタイトルにあるように城・高所に関連するものです。繰り返しの主張になりますが、これが「戦国時代負傷統計」の一つの現実なのです。

 

 では、また内訳を一つずつ見ていきましょう。


天文23年3月3日長州賀年(加年)要害

 

P『乃美賢勝軍忠状』(※1)
Q『白井賢胤軍忠状』(※2)
石礫傷計:2人
分類:攻城戦(賀年・加年(かね)要害)


永禄2年8月22日西郷遠江守要害攻口

R『佐田隆居分捕手負注文』(※3)
石礫傷計:5人
分類:攻城戦(西郷遠江守要害攻口)

 

永禄3年3月28日許斐要害切執之時

 

S『萩藩閥閲録』巻34 草苅太郎左衛門(※5)
石礫傷計:4人
分類:攻城戦(許斐要害)

 
永禄6年雲州嶋根郡白鹿要害詰口

 

T『吉川元春軍忠状』(※6)
石礫傷計:5人
分類:攻城戦(白鹿要害詰口)


備考(西郷遠江守要害):この時代の「石弓」は弩の類ではなく高所に設置された石を落とす装置


藤本正行 『絵画に見る中世の合戦 城の攻防』(※4)
・塀の下方に狭間のような四角い穴が開いており、ここから先端に大石を吊り下げた縄が出ている。いわゆる石弓である。金沢の柵については(『後三年合戦絵詞』の)詞書に「岸たかくして、壁のそばだてるがごとし。遠物をば矢をもちてこれを射、ちかき者をば石弓をはづしてこれをうつ。しぬるもの数しらず」とあり、さらに義家軍の伴次郎助兼が「岸ちかくせめよせたりけるを、石弓をはづしかけたりけるに、すでにあたりなむとしけるを」とあって、伴次郎の甲に石弓があたった場面も描かれている。なお図2で、塀の外側に大木を渡し、塀の穴から出た石弓の縄を、その上にかけているのは、塀を痛めず、また塀からより遠い場所に、すみやかに大石を落下させるための工夫であろう。

 

永禄8年6月22日長野筑後守里城

 

U『大友宗麟軍忠披見状』(※7)
石礫傷計:5人
分類:攻城戦(長野筑後守里城)


 

永禄11年7月4日立花城落去

 

V『大友宗麟軍忠披見状』(※7)
W『大友宗麟軍忠披見状写』(※7)
石礫傷計:20人
分類:攻城戦(立花城落去)

 

備考1:大友氏が本来味方であるはずの立花城を攻めた事情


■『大分県先哲叢書 大友宗麟』(※8)
P220 永禄一一 一五六八
筑前立花城主の立花鑑載、毛利氏に通じ大友宗麟に叛する。肥前の筑紫広門、龍造寺隆信もこれに応じ、大友・毛利の和睦決裂。宗麟、兵を派遣し立花城を攻め、鑑載自刃(七月)。

備考2:2通とも国会図書館デジタルで本文確認できず。鈴木氏が利用しなかった可能性のある文書。


永禄12年5月18日立花表於敵陣切岸

 

X『大友宗麟軍忠披見状』(※9)
Y『大友宗麟軍忠披見状』(※9)
Z『大友宗麟軍忠披見状』(※9)
石礫傷計:15人
分類:高所・防御施設(立花表於敵陣切岸・立花表於敵陣長尾岸涯)

備考1:「立花表於敵陣切岸」について


■『大分県先哲叢書 大友宗麟』(※8)
P90
立花城攻防戦
・永禄十二年(一五六九)四月、毛利元就は病気の身をおして下関まで下向した。宗麟も同じころ、はじめて国外に出張して高良山久留米市)に宿陣し、立花城・佐嘉城の戦闘の指示をした。(中略)到津文書には、五月十八日、二十一日、二十六日、大友方が包囲軍(引用者注:毛利方)を突破して、立花籠城衆と連絡しようとしたが、多数の損害を出して退いたとある。

備考2:立花表毛利方の野戦築城について
 吉川元春の部将森脇飛騨守(はじめ市郎右衛門尉)が記した『森脇覚書』には、この戦いの際に以下の様に「御陳所垪尺(柵)を御こしらへ、岸を切、ほりを堀、」と毛利方の陣地で柵・切岸・堀などが整備されたことが記されている。また、著者森脇一(市)郎右衛門が命じられて立花城への道筋に堀切を作り、城側と城外の豊後衆の連絡を遮断したことも自ら『森脇覚書』に記している。大友方は立花城の救援のために長尾岸涯とも呼ばれるような高所に位置取り防御施設を備えた毛利方の陣地に「切上」がりという形で挑んだことになる。

 

■『森脇覚書』(※10)
一、五月五日豊後衆陳付、其まま此方惣陳へ切懸候。前かどより御陳所垪尺(柵)を御こしらへ、岸を切、ほりを堀、御普請被仰付候に付而、御しのけ候、椋梨陳切きしにて、隆景様御内小泉与市討死候。
一、同十八日ニ、又惣陣へ寄懸候。先三口へ専上候。高野山陣・楢崎陣・宍戸陣・熊谷陣へ切上候。陣所我々の持口ニ兼てより御定候。御両殿衆ハよわき所へ加勢被仰付、所々へ御人数御配候。先楢崎陣難儀ニ見へ候。
一、城と豊後衆成合候てハと、其合戦半ニ城へ之道筋ほり切ニ、人数召連、森脇一郎右衛門参候て、ほり切せ申候。
 

元亀3年4月19日飯森要害攻口

 

α『大友宗麟軍忠披見状』(※9)
β『大友宗麟軍忠披見状』(※9)
石礫傷計:3(+1)人
分類:攻城戦(飯森要害攻口)



備考:一通目と同じ文言を持つ文書に樋口市右衛門を記さないものもあるのでこの人物は()とした。

 

天正9年10月彦山表玉屋口一戦


γ『石松勝氏文書』(※11)
石礫傷計:3人
分類:攻城戦(彦山表玉屋口一戦)

 

天正11年10月16日豊前国下毛郡是則切寄挫之刻


δ『平井覚昭氏文書』(※12)
石礫傷計:2人
分類:攻城戦(是則切寄挫之刻)

備考(天正9年10月彦山表):「彦山表玉屋口」と当時の彦山(英彦山)が武装勢力の拠点と考えられる理由と大友氏が攻めた事情


■『大分県先哲叢書 大友宗麟』(※8)
P116 彦山焼打ち
豊前筑前の最高峰彦山(一二〇〇メートル)は、平安時代山岳仏教の隆盛と共に、修行僧が住み、山間の谷地を開墾して、谷々を山領としていった。室町時代には、山伏の修験の中心地として栄え、彼らは諸国を廻行して、密偵使節の役目を務め、武力をも備えるようになった。数千といわれる衆徒を統括する座主は、応仁・文明の乱のころには、守護大内氏の部将の一人として扱われるようになっていた。
・秋月方に与した彦山を攻撃することになった宗麟は、「彦山衆徒が、悪党に同意したので」とか、「彦山に至り、悪党が楯籠ったので」という口実のもとに、日田郡玖珠郡衆を中心とした大兵をもって包囲し、天正九年(一五八一)十月、玉屋口・別所口より攻め登り、坊中残らず焼き払った。


備考(是則切寄):「切寄」は城館を指す呼称


中津市の中近世城館 資料編
https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/34/34425/63233_1_%E4%B8%AD%E6%B4%A5%E5%B8%82%E3%81%AE%E4%B8%AD%E8%BF%91%E4%B8%96%E5%9F%8E%E9%A4%A8%E8%B3%87%E6%96%99%E7%B7%A8.pdf
是則切寄(安松遺跡)


集計

 

前回分:応仁元年~天文21年7月23日までの合計
3(AB)+16(C)+10(D)+12(EF)+1(G)+1(H)+13(IJ)+3(K)+10(LM)+4(NO)+45(第一回)=118人

 

今回分:天文23年3月3日~天正11年
2(PQ)+5(R)+4(S)+5(T)+5(U)+20(VW)+15(XYZ)+3(αβ)+3(γ)+2(δ)=64


118+64=182

 

 このように、182人分の石礫傷を得ることができました。鈴木眞哉氏の『謎とき日本合戦史』にある石礫傷は160人分でしたが、22人上回ることになりました。これは恐らく氏が調査をしていた時期にはなかった史料が発見されており、それが利用できたからではないかと考えられます。

 

 今度は分類別で見ていきましょう。

 
高所・防御施設:18(AB:3+XYZ:15)/182
明確な高低差・防御施設確認できず:4(NO)/182
攻城戦:160(上記2つに入る物以外全て)/182


 城は当然ながら高所や防御施設を備えます。今度は高所・防御施設があるものと城をめぐる戦いをひとまとめにして、明確な高低差・防御施設の確認できないものと対比させてみましょう。

 

高所・防御施設・攻城戦:178/182=97.9%
明確な高低差・防御施設確認できず:4/182=2.1%

 

 このような圧倒的大差となりました。戦国時代に申告された石礫傷はほとんどが城・高所・防御施設に関連した戦いであったことが改めてわかります。

 

 申告された地域別でも見てみましょう。前回はすべて中国地方の勢力に申告されたもの、今回はPQSTが中国地方のもの、RとU以降の全てが大友家を中心とする北部九州の勢力に申告されたものとなります。

 

5(R)+5(U)+20(VW)+15(XYZ)+3(αβ)+3(γ)+2(δ)=53


これが北部九州で申告された人数です。これを全体から引けば中国地方の勢力に申告されたものとなります。

 

182-53=129
中国地方:129人
北部九州:53人

 

 するとこのような結果となりました。冒頭でも触れましたが、戦国時代全体・全国から申告されたように思われる石礫傷の統計も、実はそのほとんどが中国地方と北部九州の勢力に申告された攻城戦・陣地攻めの石礫傷に過ぎなかったということが改めてわかります。

 

 野戦投石は『信長公記』『三河物語』など戦国人の残した著作の三方ヶ原合戦の記述に現れるなど戦場で全く使われなかったというわけではありませんが、管見では慶長~寛永辺りに書かれた上記二つ以外の比較的信頼できるとされるような戦国人の覚書類でもあまり見かけることのないむしろ例外的な戦術です。戦国時代には石礫傷が多いと聞いていたから戦国時代を扱った創作物で野戦投石部隊が活躍するのは考証的に正しい、と信じていた方は今回の内訳を見て少なくとも戦傷統計はその根拠にならない、むしろ野戦投石部隊が活躍した根拠とするには致命的に相性が悪いとさえ言えると知っていただければと思います。


 ということで今回はここまで。石礫傷に関する記事の全体的な結論・補足などは関連トピックの【島原の乱宮本武蔵】が終わってからそちらの話題も含め改めて行います。


引用元・参考文献
1:東京帝国大学文学部史料編纂所・編 『大日本古文書 家わけ十一ノ二 小早川家文書』(東京帝国大学
2:広島県・編 『広島県史 古代中世資料編5』(広島県
3:大分県教育庁文化課・編 『大分県先哲叢書 大友宗麟 資料集 第二巻』(大分県教育委員会
4:長谷川端・校注 訳 『新編日本古典文学全集 太平記3』(小学館
5:山口県文書館・編 『萩藩閥閲録 第1巻』(山口県文書館)
6:東京帝国大学文学部史料編纂所・編『大日本古文書 家わけ九ノ一 吉川家文書』(東京帝国大学
7:大分県教育庁文化課・編 『大分県先哲叢書 大友宗麟 資料集 第三巻』(大分県教育委員会
8:大分県立先哲史料館・編 『大分県先哲叢書 大友宗麟』(大分県教育委員会
9:大分県教育庁文化課・編 『大分県先哲叢書 大友宗麟 資料集 第四巻』(大分県教育委員会
10:米原正義・校注 『戦国史料叢書 中国史料集』(人物往来社
11:田北学・編 『編年大友史料 併大分県古文書全集 第25 増補訂正版』(田北ユキ)
12:田北学・編 『編年大友史料 併大分県古文書全集 第26 増補訂正版』(田北ユキ)