東国剣記

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【島原の乱の宮本武蔵1】島原の乱の石礫傷について

 この【島原の乱の宮本武蔵】という項目は石礫による負傷を扱っており、【戦国負傷統計を見直す】に関連した内容となっています。戦国時代の負傷統計に表れる石礫傷が実際にどういったものだったか詳しく知りたい方はそちらもご覧ください。

 

 さて、島原の乱における宮本武蔵といえば、石による負傷を負って立てなくなったというエピソードが有名です。無敗の有名な剣豪として知られるイメージとのギャップから剣術など実戦では役に立たない証拠などと言われたり、農民の投石に負ける程度の武蔵の兵法は実戦的なものではなかったなどと取る人もいるようです。では、そのエピソードの根拠となる武蔵自身の書簡を紹介することから始めましょう。

 

■『有馬直純宛書状』(※1)
    宮本武蔵
有左衛門佐様
   小性衆御中
〔読み下し〕
思し召さるるに付き、尊礼忝き次第に存じ奉り候。随て、せがれ伊織儀、御来に立ち申すこと、遍(ひとえ)に大慶に存じ奉り候。拙者儀、老足御推量成せらるべく候。貴公様御意の様、御家中衆へも手元にて申しかはし候。殊に御父子共、本丸まで早々に成られ御座候こと、遍に驚目申し候。拙者も石にあたり、すねたちかね申す故、御目見にも祗候仕らず候。猶重ねて尊意偉るべく候。恐惶謹言。
即剋       玄信(花押)

 


 確かに本文中には本人の申告による「拙者も石にあたり、すねたちかね申す」とあり、特に城攻めの際の石傷についてあまり知らない人から農民の石投げに負けたと情けないイメージを持たれるのも無理からぬことかとは思います。しかし近年発見された豊前中津藩の記録を見ていくと、意外と一筋縄では行かない話であるとわかってきました。この【島原の乱宮本武蔵】では武蔵の負傷は実際にはどうだったのか、何のためにそう申告されたのか、ということを考えていきます。そのためにはまず、武蔵の一件に限らず島原の乱における石の負傷とはどういうものなのか史料から確認していきましょう。

 

 武蔵が「拙者も石にあたり、すねたちかね申す」という状態に陥ったことを自己申告するのは島原の乱の最終局面である2月27日からの幕府方総攻撃の時だと考えられますが、この時ばかりでなく板倉内膳が着任し正月の総攻撃に失敗し討死するまでの時期でも上からの石は猛威を振るったようで、その頃の報告にも現れます。以下、頑丈な高い塀に囲まれた原城の姿や一揆勢の戦いぶりが当時の人の観察で確認できるので、征討に参加し乱後には天草の代官になった鈴木重成の『書状写』をそれを含めて長めに引用しましょう。余談ですがこちらには塀の狭間を調べるのに甲賀の忍びを使った記述があり、幕府方が一揆勢との戦いの比較的早い段階から忍者を斥候として使用していたこともわかります。


■『鈴木重成書状写』(※2)
一 一揆共取籠居申候古城、惣廻り之塀并内之躰、いかにも丈夫普請仕居申躰ニ見へ申候事
一 塀之かけ様高サ九尺余り、内ニハ竹をあて、其つきニ土たわらニて五尺計つき立、はしりあかり候やうニどてのことくニ仕、むしやはしりをいたし、いかにもあつく仕、塀之おおいハ無御座由申候、甲賀忍之もの塀際迄夜しのひ参、矢さまなとさくり見申候、いかにもあつく丈夫なる躰申候事
一 城中より常ニハ鉄砲一つも打不申候、取寄候時計うち申候、玉薬大切ニ仕候かと申候事候、
一 当朔日惣責可仕由、何もへ被仰渡候、卯之刻以前より責候由孟子候処ニ、夜之内ハ城中よりなけたいまつをさいけんなく出し、そとの躰を見申、夜あけより鉄砲を打立、塀きわへ付候ものをハ女迄たすきをかけ、くるすをひたいニあて、はちまきをいたし、石つふてを雨のふるほと打申付て、寄衆しらミひき申候、内膳(板倉重昌)討死ニ而候、


 一揆勢は正月の段階で弾薬の節約を意識していたようで、無駄撃ちをするのではなく「城中より常ニハ鉄砲一つも打不申候、取寄候時計うち申候」と攻城側が来るのに合わせて意外と大切に撃っていたとのことです。それに比べると石に関しては「石つふてを雨のふるほと打申付て」とありますから惜しまずに雨の様に投げ落としたようです。また、その礫を降らせる攻撃は「塀きわへ付候ものをハ」とあり、同書状に「九尺余り」という高さが記された塀について登ろうとする者に対して行われたことがわかります。女たちまで石を降らせる攻撃に参加したことも記されていますが、彼女たちを含めた必死の一揆勢による礫の攻撃は寄衆(攻める幕府軍)がひるんで退いてしまうほど凄まじいばかりだったようです。

 

 ほか、九州の大名日根野家家臣も板倉内膳が討死した戦いに関して以下のような情報を得ていました。

 

■『日根野吉明家臣某口上覚』(※2)
・一去朔日之夜明時分ニ、惣責御座候而、塀際へ著申候処を石をおとし、鉄砲をうち、なた長刀ニ而(て)つき申候、
・内膳様ハ内より鉄砲あたり御果被成候、十蔵様(石谷貞清)さま(狭間)より鑓を御つきこミなされ候、内よりも、長刀ニてつき申候、鉄砲石あたり申候


 先ほどの書状では石を雨の様に降らせる表現となっていましたが、こちらでは「石を落とし」とあります。高所からの攻撃であることが一層はっきりします。十蔵様とは石谷十蔵貞清のことで、彼はこの時の征討軍では副将という重要な立場にある人物でしたが、大将が討死するほどの戦いですから副将もまた前線に出て鉄砲や石の攻撃を受けることとなったようです。もちろん下の立場の者にも石による負傷が頻出したことが以下の文書に報告されています。


■『萩藩閥閲録遺漏』巻5の3 宗像伝兵衛(※3)
・一昨日元日卯刻はる(原)之城惣乗被仰付候、然共城堅固ニ相堪候故、仕寄迄諸勢引退申候、
私組之者不残石つふてニて疵付申候内一人鉄砲疵ニて御座候、
寛永十五)正月二日 国史下総守
阿曽石見守様 人々申候

■『(寛永十四年)極月廿一日 注進状(著者未詳)』(※4)
・立花左近(忠茂)殿手ニ付罷有候共、城のへいきわへ五十騎つき申候、城中より手しけく鉄砲を打かけ、石を打かけ申候て、両手に手負、死人そくはく出来、乗申候事成不申候て、引申候、弥以竹たはの用意にて、御座候、打死仕候もの手負共過半牢人にて御座候由承候事、


 『萩藩閥閲録』の方では報告者の属する組の者が皆残らず石傷を受けたというほどの被害があったことが書かれていますし、立花勢についての報告でも鉄砲と共に石による負傷が多かったことがわかります。なお「打死仕候もの手負共過半牢人にて」とありますが、立花勢は2月27・28日の最後の総攻撃のときも牢人衆を前面に出して登らせたようで『立斎旧聞記下』にそのリストが掲載されています。現代的な価値観からすると大名家中が弱い立場の浪人を鉄砲や石を防ぐ楯代わりにしたような印象にもなりますが、陣借りして勇敢に戦うことは仕官にも繋がる道なので、この過酷な場で生き残ることさえできればという条件がつくにしても一応は浪人たちにとってもチャンスではあったのでしょう。

 

 なお、太平の世になって書かれた『立斎旧聞記』記載という点が軍忠状や感状の基準を満たさないと考えたのか、石傷の総数や著作の参考文献欄を見る限り鈴木眞哉氏はこちらを統計に用いなかったようですが、一応は前回まで見て来た軍忠状や手負注文などと同種の負傷者リストと考えられ、「立花家士所持之書也 元禄弐己巳歳十二月於府写之」と具体的ではないながらも出どころや書写年月についても一応銘記されています。以下はそこから石傷だけを抽出したものですが、武蔵が「すねたちかね申す」となったことを自己申告した総攻撃の時も、実際石傷を負った者が相当多かったことの参考として紹介しておきましょう。


■『立斎旧聞記下』(※5)

 ほか、乱後に関係者やそこから情報を得たと考えられる者などにより書かれた覚書やその類では一層石の威力が強調されます。落とされるのが「大石」「大木」などと書く物も頻出し、その質量によって兜を砕く威力であることも記述されています。


■『佐野彌七左衛門覚書』(※6)これ以下『松倉記』まで出典全て同じ。
一、同二十八日未明より五つ時分まで詰之丸より少々鉄砲打出し石を落し或は衣類に火を付投出し申候
此所へ松浦肥前守殿過労松井主水稲生弥一右衛門拙者三人懸合候処に石を以て甲を打砕れ少手負申候

■『肥前国有馬戦記』
・城中より弓鉄砲を発し大石大木にて近付ものを打落し猶進み掛るをは鑓長刀にて突落し寄手の勢討死手負多し
・諸士は石垣に着て本丸に乗入んと塀下に近く一揆爰を専度と防ぎ鉄砲を放ちかけ近すくものは大石大木或は臼鍋釜の類を投又蓬に火を付はね落し塀に近つくは鑓長刀にて塀越に突
一、尾藤金左衛門塀下に近く乗入んとせしに一揆の内強力と見へて塀の上に顕れ出て大石又は臼を軽く投落し金左衛門石に打れて死す

■『有馬之役』
・賊炬を投して近者をは石を以て撃ち遠者をは鉄砲を以て殺之鑓刀を携へて越壁者を防く

■『島原原之城兵乱之記』
・松倉家の人数と一所に働く時に城中より鉄砲を打石礫を飛し箕に火を付悪灰を蒔事降雨の如し
其外槍長刀を以て塀下に付たる塀を防き石にて甲の鉢を打ひしかれ難儀の躰なれとも

■『高来郡一揆之記』
なげ出す大石に甲指物悉く打損し疵を蒙り引退く。

■『松倉記』
・鳥山権三郎来て助合、敵壱人突留る、桑野も又壱人突留る、今壱人之敵石をもつて鳥山が面をしたたか打、本丸の方へかけ出し逃行、鳥山が飛礫にて強く打れ、当座に絶死いたす、桑野も石手鑓手負たれ共、

 


 「石を以て甲を打砕れ少手負申候」「大石又は臼を軽く投落し金左衛門石に打れて死す」「石にて甲の鉢を打ひしかれ難儀の躰なれとも」「なげ出す大石に甲指物悉く打損し」「鳥山が飛礫にて強く打れ、当座に絶死いたす」など、城の上から投げ落とされる石の類というのは、兜さえ砕き一発で命を奪いかねない本当に恐ろしい威力を持っていたことが具体的に記述されます。

 

 ほか、私自身調査報告を見た訳でもない孫引き情報となりますが、原城とは別の城の発掘においてこのような事例が見られたという話を紹介しておきます。

 

千田嘉博『日本とヨーロッパの城と戦い』(※7)
・こうした礫の効果を具体的に検討した数少ない例として三島市教育委員会によって調査された山中城の例がある(高島1994)。
 この場合は礫とされた石の平均重量が約4kgというから、南北朝時代の山城を描いた絵画史料に散見される「石弓」の系譜に属した、堀底の敵めがけて落として使ったものであろう。

 「石弓」について前回も引いたものですが、見ていない人のためにもう一度以下を引用します。

藤本正行 『絵画に見る中世の合戦 城の攻防』(※8)
・塀の下方に狭間のような四角い穴が開いており、ここから先端に大石を吊り下げた縄が出ている。いわゆる石弓である。金沢の柵については(『後三年合戦絵詞』の)詞書に「岸たかくして、壁のそばだてるがごとし。遠物をば矢をもちてこれを射、ちかき者をば石弓をはづしてこれをうつ。しぬるもの数しらず」とあり、さらに義家軍の伴次郎助兼が「岸ちかくせめよせたりけるを、石弓をはづしかけたりけるに、すでにあたりなむとしけるを」とあって、伴次郎の甲に石弓があたった場面も描かれている。
参考:https://dl.ndl.go.jp/pid/2573525/1/25(※前九年後三年両絵巻のセット)

 このように戦国の城に備えられた落とすための石は平均数キロ程度という報告もあるようです。そんなものが狙いをつけて高所から落とされれば鉄製の防具であっても安全とは言えませんし、塀や石垣などを登っていたところに当たった場合には石傷を受けた上でそこから落下するという二次的かつ致命的なダメージをもたらすことも想定されます。一揆に参加した農民が平地でその辺の石を拾って武蔵に投げた、という一部に持たれるイメージとはまったく別物といっていい攻撃なのです。

 

 また、「大石大木にて近付ものを打落し」「鉄砲を放ちかけ近すくものは大石大木或は臼鍋釜の類を投」ということから鉄砲よりも近い間合いに対して行われることもわかります。記事の最初の方で紹介した書簡にもあった情報ですが、攻城戦の石傷は敵により近づいた結果として負いやすい勇敢な傷であって決して情けない不名誉なものではないということです。「拙者も石にあたり、すねたちかね申す」が事実であったとしても、リーチの短い武器しか持たない宮本武蔵が平地で遠くから放り投げる一揆勢の石に当たりあっけなく倒されたというような事例ではないということを繰り返し強調しておきます。

 

 そして石が当たる距離からさらに近づくと「大石大木にて近付ものを打落し猶進み掛るをは鑓長刀にて突落し」「塀に近つくは鑓長刀にて塀越に突」「其外槍長刀を以て塀下に付たる塀を防き」など長物を中心とする白兵戦武器で突き落とされる記述もありますが、先述の『立斎旧聞記下』掲載『右同時属立花家御手牢人働之覚』に石傷と並んで槍傷も見えるのは一揆方がそういった戦い方をしていた裏付けとも取れそうです。


 以上、今回は島原の乱の石傷がいかに負傷機会の多いものであり、ものによってはいかに恐ろしい威力を持つのかについてお話ししました。それはそれとしてということになりますが、次回はこの乱で宮本武蔵が属した豊前中津藩の出陣者リストという公式記録では、彼が無傷扱いになっているという話です。「【島原の乱宮本武蔵2】豊前中津藩の出陣者リストでは無傷の宮本武蔵」に続きます。

 

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引用元・参考文献
1:松延市次 松井健二・監修 『決定版宮本武蔵全書』(弓立社
2:岐阜県・編 『岐阜県史 史料編 古代・中世2』(岐阜県
3:山口県文書館・編 『萩藩閥閲録遺漏』(山口県文書館)
4:花岡興史・監修 『新史料による「天草・島原の乱」』(トライ)
5:国書刊行会・編 『続々群書類従 第三』(続群書類従完成会
6:林銑吉・編『長崎県島原半嶋史 中巻』(長崎県南高来郡市教育会)
7:考古学研究会編集委員会・編 『考古学研究』第43巻第2号 (考古学研究会編集委員会

8:長谷川端・校注 訳 『新編日本古典文学全集 太平記3』(小学館