東国剣記

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【戦国負傷統計を見直す・補】南北朝時代の石の負傷記録は攻城戦のものばかりで数も多くはないことの確認

 【戦国負傷統計を見直す】と謳っていますが、番外編としてそれ以前の南北朝時代の負傷統計の方にも少しずつ手を付けていくこととしました。この時代の石による負傷については先行研究において、

■トーマス・コンラン 『南北朝期合戦の一考察 ――戦死傷から見た特質――』(※1)
・石は基本的に城郭の防戦のために使われた。武士が石で戦傷を受けるのは多くの場合、城を攻めた時であった。石は城郭から投げ落とされる岩石以外、武器としてはそれほど効果はなかったと言えよう。

といった分析があります。こちらの論文の載る南北朝時代の負傷統計を確認してみると、

■『南北朝期合戦の一考察 ――戦死傷から見た特質――』
矢 523〔73%〕
太刀 178〔25%〕
鑓 15〔2%〕
石 5〔1%〕
(引用者注:1333年(元弘年間)から1394年(明徳年間)までの記録)

 

となっており、石傷はわずか5人と非常に少ないことがわかります。しかし一方で鈴木眞哉氏による統計では、


鈴木眞哉 『「戦闘報告書」が語る日本中世の戦場』(※2)
矢疵・射疵 五〇〇人 八六・〇六パーセント
切疵 五六人 九・六四パーセント
石疵・礫疵 一五人 二・五八パーセント
鑓疵・突疵 九人 一・五五パーセント
その他 一人 〇・一七パーセント
(引用者注:元弘3年(1333)から至徳4年(1387)までの記録)

 

というように、時代の長さの違いは7年ほどあるにしても、かなり違った割合となっています。石傷についても「石 5」「石疵・礫疵 一五人」と違いが歴然です。両統計に共通して言えるのは矢傷は500人台であり負傷別では最多であること、鑓傷・石傷などは少ないということでしょうか。

 

 ただ今回問題としたい石による受傷に関しては、その少なさのおかげで既にそれら”2つの統計と大体合致”するデータが得られています。なぜ「石 5」「石疵・礫疵 一五人」と違った数字である2つの統計の石傷それぞれに合致すると言えるのか、コンラン氏論文と鈴木氏のデータのズレの原因と考えられるものは何なのかは後ほど説明しましょう。

 

 まずはコンラン氏の統計準拠で列挙していきましょう。こちらはありがたいことにコンラン氏の論文の「石の砕力」についての注釈(36)として、

 

■トーマス・コンラン 『南北朝期合戦の一考察 ――戦死傷から見た特質――』
(36) 『鎌倉遺文』四一-三二〇四三~四、三二〇五五。『南北朝遺文・九州編』六五七、九二六。『兵庫県史』史料編中世八「南禅寺文書」一二。『高石市史』第二巻、一四五。

 

と出典が記されていたので確定させることができます。以下、『鎌倉遺文』にあるのは下記『熊谷直経合戦手負注文』とわかっているのでそちらは確認には行きませんでしたが、それ以外はコンラン氏論文に提示されている出典から確認し、5人分の石傷負傷を揃えました。

 

 コンラン氏の石傷の集計です。

 

■1=石傷×1
■2=打破×1
■3=打破×1
■4=石傷×1
■5=石傷×1
石傷総計:5人

 

となりました。石によると確実なケースだけでなく「被打破」というだけのケースも2例含まれています。実際のところ「被打破」とあるだけでは攻撃手段が確実にわかるわけではないものの、■5「石被打破首」のように石で打ち破ったと確実なケースもあるので同類の傷と判断されたのでしょう。■2・■3の「被打破頭」のケースでは「半死半生」という命に係わる負傷であったともわかります。

 また、私はこれらに加えてもう一件石傷を発見しています。


 ということで、■1は千早城、■2は加瀬田城、■3は進美寺城、■4は敦賀(金ケ崎)城、■5は河合城、■6も金ケ崎城とすべて城攻めの際の負傷申告となりました。■1の千早城合戦については他にも『熊谷直氏合戦手負注文』『楠木合戦注文』という石礫傷に関する言及がある史料が知られています。

 それぞれ「此外被打礫、難令存命之族数輩雖有之」「凡家子若党数人手負、或打死云々」と一人二人の受傷では済まない大規模な使用を伺わせますがこういった千早城での石傷受傷事例は、

■『西源院本太平記』第七巻 一千剣破(ちはや)城軍事(※8)
・城中の物共、少しもさはかす、静まり帰りて、高櫓の上より、大石を排(なけ)かけ排かけ、楯の板を微塵に打挫て漂ふ処を、さしつめさしつめ散々に射ける間、四方の坂よりもころひ落、
・人形計(ばかり)を木かくれに残し置て、兵は次第に城の上へ引上る、寄手人形を実の兵そと心得て、是を打むと相集る、楠所存の如く敵を謀寄て、大石を四五十、一度にはつとはつす、一所に集りたる敵三百人、矢庭に打殺され、半死半生の物五百余人に及へり、


というように『太平記』の同城合戦において楠木正成が高所からの石で幕府軍を大いに苦しめた描写とも一致する実に興味深い記録と言えるでしょう。しかしながら「数輩雖有之」「数人手負、或打死云々」というような特定人物の名を残さず、また数のはっきりしない記録であったため、コンラン氏の負傷統計には算入されなかったと考えられます。

 

 他に■4・■6も同じ金ケ崎城(別名敦賀城)で受傷したケースとなり、一つの城でまとまって石が使われたことを伺わせます。■6については「付屏之刻、以石被打之条」と塀に付いた結果石の受傷を受けるという岩屋城の戦いや島原の乱など、戦国後期以降にも多く見られる状況を既に南北朝時代で確認できているのも面白い所です。


 それにしても、コンラン氏の内訳を参考にしたり私が確認した限りにおいてはやはり石・打破の負傷は6件で終わってしまっています。これでは鈴木氏の統計とはかけ離れたままです。しかし、実は他にこの時代の軍功文書から確認できる傷としてさきほどの「打破」と似た「打疵(傷)」というものがありました。その「打傷」についての鈴木氏の認識を『「戦闘報告書」が語る日本中世の戦場』から見てみましょう。


■『「戦闘報告書」が語る日本中世の戦場』
・応安四年(一三七一)一二月二七日、肥前某城で戦った松浦党の左近太某が左膝を射られ、「右のス子(脛)打疵」(有浦文書」)と上申したのもおそらく落された石が脛に当たったということであろう。

 

と、鈴木氏はこの打傷を確実ではないとしながらも石傷や「打破」と同じ部類の負傷として扱っています。「打傷」は「打破」同様攻撃手段が明らかではなく鈍器の類による攻撃という可能性もあるものの、打つという点では確実に石の負傷とわかる■1「石ニウタレ」・■4「以石被打肩」・■5「石被打破首」・■6「以石被打」すべてのケースとも共通であり、後述の打傷の受傷状況も踏まえると私もこれらの負傷は同じように石によるものであると見なしたくなります。

 

 ではここからはその打傷の類を具体的に確認していきましょう。

   

 こちらに関しても全て城攻めの際の負傷となりました。なお、■E ■Fが城攻めである根拠は以下の通り。それぞれの合戦についての軍忠状において鳥屋尾も花嶽も城とされています。

 では打傷の方の集計です。

 

■A=打傷×1
■B=打傷×2
■C=打傷×1
■D=打傷×1
■E=打傷×2
■F=打傷×2
■G=打傷×1
打傷総計:10

 

となりました。これによって「石傷・打破6人」 + 「打傷10人」=16人となり、「石傷・打破」だけを取るならばコンラン氏論文の5人と近く、「打疵」を含めると『「戦闘報告書」が語る日本中世の戦場』の15人と近いというように、それぞれと大体同じような数字を取ることができました。従ってコンラン氏統計と鈴木氏統計のズレの原因はやはりこの打傷を算入したか否かと考えられるでしょう。

 

 ただし、いずれにしても記録に残る数は決して多くなく、また高所から投げ落とされたと考えられる城攻めの際の負傷ばかりで、高低差や防御施設と無関係であると見なせるものはありませんでした。受傷状況に関して言うと■Bは以前の記事で紹介している戦国時代に石傷の確認できる賀年城での事例であり、

 

天文23年3月3日長州賀年(加年)要害(※16)(※17)


私はこの点からも打傷はやはり石傷であったと考えたくなります。

 

 他にも■B・■E・■Fは一つの戦闘での複数の受傷事例であり、やはり石傷・打破の事例同様一つの城で集中的に使われたケースも多かったのではないかと見たくなります。また余談の部類ですが、■Dと■Eにおいては片方は中間で片方は源姓武士の幼名として同じ「竹一丸」という人名が見られるのも興味深いというか奇妙な一致となっています。

 

 以上。南北朝時代の石傷について私なりに確認した結果、やはり南北朝時代においては石による負傷の申告は数の上ではさほど多くなく、用途としては応仁の乱島原の乱の時期と同様城を守るために高所から使われたと考えられる武器であった、と先行研究同様の結論を出さざるを得ませんでした。

 

 しかし一方で、■1´の「此外被打礫、難令存命之族数輩雖有之」や■1´´の「自上山以石礫、数ヶ所被打畢、雖然今存命、凡家子若党数人手負、或打死云々」など、確実な記録以上に石による負傷者数があったことを伺わせる情報も拾うことができています。もし千早城合戦で志川滝山城合戦並みに大部の軍功報告が作られていれば南北朝時代の石傷ももっと増えたのではないかと考えられるかもしれませんが、これは「史料残存の偶然性」に頼る負傷統計が抱えている根本的な問題でもあるのでどうしようもないことです。

 

 逆に考えるとたまたま記録され、たまたま残った史料に頼るしかない統計でもあるので、あまり細か過ぎるレベルで数の上下について考えても仕方がないと私個人としては思います。また、そういった問題を抱えている反面青森から鹿児島までという範囲で見られる南北朝時代の負傷記録はまだしも、戦国時代の負傷統計については申告される地域の偏りも著しいため、いずれ総括としてそのような「統計」という形にする意味は果たしてあるのかということについても考えるつもりです。

 


引用元・参考文献
1:大山喬平教授退官記念会・編 『日本社会の史的構造 古代・中世』(思文閣出版
2:鈴木眞哉・著 『「戦闘報告書」が語る日本中世の戦場』(洋泉社
3:東京帝国大学文学部史料編纂所・編 『大日本古文書 家わけ第14(熊谷家文書,三浦家文書,平賀家文書)』(東京帝国大学
4:瀬野精一郎・編 『南北朝遺文 九州編1』(東京堂出版
5:兵庫県史編集専門委員会・編 『兵庫県史史料編 中世8』(兵庫県
6:高石市史編纂会・編 『高石市史 第2巻 (史料編1)』(高石市) 
7:福井県・編 『福井県史 資料編2(中世)』(福井県
8:鷲尾順敬・校訂 『太平記 西源院本』(西源院本太平記刊行会)
9:佐賀県立図書館・編 『佐賀県史料集成 第4巻』(佐賀県立図書館)
10:山口県文書館・編 『萩藩閥閲録 第3巻』(山口県文書館)
11:東京大学史料編纂所・編 『大日本史料 第6編之7』(東京大学
12:阪南町史編さん委員会・編 『阪南町史 下巻』(阪南町)
13:渡辺澄夫・編 『豊後国荘園公領史料集成3』(別府大学附属図書館) 
14:佐賀県立図書館・編 『佐賀県史料集成 第19巻』(佐賀県立図書館)
15:東京帝国大学文学部史料編纂所・編 『大日本古文書 家わけ九ノ二 吉川家文書之二)』(東京帝国大学
16:東京帝国大学文学部史料編纂所・編 『大日本古文書 家わけ十一ノ二 小早川家文書』(東京帝国大学
17:広島県・編 『広島県史 古代中世資料編5』(広島県