東国剣記

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【島原の乱の宮本武蔵2】豊前中津藩の出陣者リストでは無傷の宮本武蔵

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 前回の記事で島原の乱における一揆方の石による攻撃が平地での手ごろな石投げではなく、高所からの石落としという致命傷にもなり兼ねない恐るべき攻撃を含むものであったことはおわかりいただけたかと思います。

 

 今回は手紙では「拙者も石にあたり、すねたちかね申す」(※1)と書いた武蔵が、この合戦で属した豊前中津藩の記録ではどうなっているかというお話です。

 

 宮本武蔵島原の乱の際に養子伊織を仕えさせた小倉藩小笠原家ではなく分家となる中津藩小笠原家から出陣していたことは『武州伝来記』のようなごく一部の文献に記されていましたが、それが事実であったことが宇都宮泰長氏の調査によって確定されています。そして発見された新史料には中津藩に属していただけでなく、「拙者も石にあたり、すねたちかね申す」とはまた違った宮本武蔵の姿が記録されていたのです。

 

 しかしながら、まだまだこの成果が一部に知られているのみで十分に紹介されておらず活用もされ切っていないと感じるのと、新史料を発見された宇都宮氏に敬意を表し、発掘の経緯から紹介しましょう。以下、それに続く『長次肥州有馬陣記』リストの禄高については以下引用文にあるように氏が『中津藩家中分限帳』から引いて付け足したものです。


■『宮本武蔵と新史料』(※2)
・さて、武蔵展の協力であるならば、さらに新しい武蔵史料の存在を確信していた筆者は、小笠原文庫を再度調査することにした。日程を調整し二日後に文庫に赴いた。目当ての史料は『笠系大成』と『笠系大成附録』であるが、双方で五十冊余なので、時間を気にしながら一冊づつ丁寧に見ていく。まず、『笠系大成』の中津藩主小笠原長次の条に島原出陣に関する記述があった。そして、そのなかに、「人数帳附録ニ在リ」の注記を見つけた。そこで『笠系大成附録』を調べ、「長次肥州有馬陣記」をめくって、旗本一番の隊士名簿のなかに「同 十九人 宮本武蔵」を発見した。同とは最初の行に書かれた部下をあらわす「上下十九人」と、つまり武蔵は部下十九人を率いていたことを示していた。こうして、宮本武蔵について新たな史料を加えることになったのである。
 旗本一番隊士名簿 まず旗本一番の隊士名簿から紹介する。参考に隊士の禄高を示すことにした。括弧の禄高は『中津藩家中分限帳』より引用した。
■『長次肥州有馬陣記』(※)

 上下(部下)19人というのは旗本一番組の中でも6番目の数で、中津藩小笠原家の旗本としては武蔵がなかなか高い位置に置かれていることが伺われます。しかしこのリストで得られる今回最も肝心な情報は「旗本一番」だけを見ていては少々わかりにくいかもしれません。なのでこの文書の体裁を理解しやすくするためにも「旗本一番」組以前に記されている二つの組の必要部分を書き出し、印をつけてみました。


■『長次肥州有馬陣記』


 おわかりでしょうか。この文書は率いた人数と人名の間に「手負」「討死」など死傷について、「使番」「横目」「医師」「牢人」「御膳番」「医師」等の役割・職業などを書く欄があるのです。つまり主だった出陣者のリストでもあり、その中の死傷者を記録したリストでもあるわけです。

 それを踏まえ、改めて武蔵のいる旗本一番組リストを見てみましょう。今度はこちらにも印をつけます。

 

 旗本一番組は「使番」の長尾全三左衛門が「手負」となっているほか、林九郎太郎が「討死」となっており負傷者・戦死者の姿が確認できることがわかりますね。そして我らが宮本武蔵は……何も印がありません。ほかの負傷者のように「手負」のマークはありません。

 

 つまり武蔵は無傷扱いです。「拙者も石にあたり、すねたちかね申す」は書簡での自己申告、こちらは豊前中津藩小笠原家が残した客観的な記録となります。


 一体なぜ、書簡での自己申告と藩の記録でこのような食い違いがあるのでしょうか?無傷だとしたらどうして武蔵は書簡で「すねたちかね申す」としなければならなかったのでしょうか?

 

 それについては次回、この時の武蔵をとり巻く大名家やそこに仕えた養子たちなど人間関係を踏まえながら事情を考えていきます。「【島原の乱宮本武蔵3】無傷の宮本武蔵が”仮病”を使った理由(仮)」をお楽しみに。

 

引用元・参考文献
1:松延市次 松井健二・監修 『決定版宮本武蔵全書』(弓立社
2:宇都宮泰長・著『宮本武蔵と新史料』(鵬和出版)