東国剣記

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【戦国負傷統計を見直す2】戦国時代申告された石礫傷はほとんどが城・高所に関連するものと確認(前)

tougoku-kenki.hatenablog.com

 前回は志川滝山城合戦という決して有名とは言えない中国地方の一攻城戦で得られたデータだけで、戦国時代全体の石傷の28パーセントを占めるという著しい偏りについて紹介しました。

 

 今回と次回はそれ以外の戦国合戦における石礫傷の内訳を明らかにしていきますが、タイトルにあらかじめ書いてしまっている通りの結果となります。ただ、結論以上に大事なことはブラックボックスとなってしまっているデータの中身をしっかりと明らかにして見てもらうことだと思っています。したがってあまり面白みのない古文書の文面と人名と統計だけが延々続く項目となりますが、戦国合戦に興味を持つ方は是非お付き合いください。

 

 なお、前回お話したように鈴木眞哉氏の『謎とき日本合戦史』に掲載された統計では160人となっていましたが、鈴木氏がその調査を行っていた時期以降に石傷受傷が載る新史料が発見されていたのか、なんと160人分を越える人数のデータを得ることができました。もはやどれが鈴木氏が計算に入れなかった史料かはっきりとはわからないので、ひとまず今回得られたすべての石傷を同じように紹介していくとします。

 

 他にもこの数字はどう処理すべきなのか、鈴木氏はこの数字をカウントしたのかどうかというケースも多少見受けられましたが、それらは(+)として別途記載してあります。そちらを算入しなくても160人分以上となっていますので特に集計には使いません。

 

 そして、今回の負傷者群にはだいたいの石傷に城・防御施設・高所などが絡むということ以外にも大きな偏りがあります。それについては今回最後のお楽しみとして取っておくとして、これから応仁元年~天文18年までの全石礫傷の詳細を見ていきましょう。

 

 以下、リストは合戦名・典拠となる史料名・石礫傷合計・分類で構成されます。特殊事情や特記事項がある場合などは備考欄もあります。分類に関しては傷を負った合戦が城郭名・城郭関連施設が見える場合は「攻城戦」とし、単に高所・櫓・切岸など高所や防御施設は見えるが城ではない例は「高所・防御施設」とし、高低差も防御施設も確認されない(詳細不明含む)場合は「明確な高低差・防御施設確認できず」とします。この分類は集計の際にも用います。


応仁元年10月4日 於鹿苑院口之櫓


A『吉川元経(基経)自筆合戦太刀打注文』(※1)
B『吉川元経(基経)自筆合戦太刀打注文』(※1)
石礫傷計:3人
分類:高所・防御施設(鹿苑院口之櫓)

備考1:上野守と上野介
上野・下総・常陸親王任国の受領名は介とするのが正しいが守とするのもよくある誤り。浅枝上野守と上野介は同一人と判断。Bは四日が鹿苑院口之櫓という防御施設をめぐる戦いであることの根拠として提示。

 

備考2:「被官」の扱いについて
「被官 三宅図書助 同」がBには見られないが、今回書き出していないAに見られる他の手柄の「被官」も同じように書かれていないので、そちらでは「被官 三宅図書助 同」は軍功未認定だったのではなく身分上書かれなかっただけと判断。よってこの合戦の石礫傷は3人とした。


大永4年7月29日芸州桜尾(要害)


C『防長地下上申』9 玖珂郡本郷村(※2)
石礫傷計:16人(+1人)
分類:攻城戦(桜尾要害・桜尾西表水之手)

備考:近藤甚右衛門と近藤甚右衛門尉は苗字と官途名がほぼ一致し同一人物の疑いがあるので後者を()内とした。

 

 

大永4年5月11日芸大野城詰口


D『編年 宗像古文書』(※3)
石礫傷計:10人(+8人)
分類:攻城戦(大野城詰口)

備考1:名前の銘記されている全員が石疵受傷であり、(同)となっている下人たちもその可能性があるので()とした。
備考2:合戦の日付は不明。

 


大永4年7月25日~8月11日芸州東山北面虎口 同北面


E『仁保興奉合戦注文』(※4)
F『仁保興奉合戦注文』(※4)
石礫傷計:12人
分類:攻城戦(東山北面虎口水之手)

備考:笠井源七・三浦平三は7月25日に石疵を受傷後、29日に槍働きを行いながら再び石を受けている。軽傷であっても手柄傷として記録されることの具体例と考えられる。


大永7年2月7日於芸州石道口新城詰口

 


G『大内義興感状』(※5)
石礫傷計:1人
分類:攻城戦(芸州石道口新城詰口)

 
大永7年3月7日芸州新城攻口


H『萩藩閥閲録』巻163 吉田裁判(※6)
石礫傷計:1人
分類:攻城戦(芸州新城攻口)

 
大永7年芸州世能鳥子城


I『益田尹兼合戦手負注文』〇益田家文書(※7)
J『大内氏奉行人奉書写』(※8)
石礫傷計:13人

分類:攻城戦(芸州世能鳥子城・芸州鳥子城詰口)
備考:Iは国会図書館デジタルで送信サービスを含めて本文検索しても古めの文献から本文を確認できない。『島根県邑智郡石見町誌 上巻』の記載により文書自体が知られていたのは確認できる。


大永7年5月仁保嶋并国府城詰口


K『萩藩閥閲録』巻102ノ2 冷泉五郎(※9)
石礫傷計:3人
分類:攻城戦(仁保嶋(城)并国府城詰口)


天文11年7月27日出雲国飯石郡赤穴城


L『萩藩閥閲録』巻43 出羽源八(※10)
M『吉川興経感状』(※11)
石礫傷計:10人
分類:攻城戦(赤穴城責之時切岸・赤穴要害於水手)
備考:文書Lの「頭当石」は「つぶて」か?


天文18年11月27日安濃郡大田表


N『萩藩閥閲録遺漏』巻5の2 都野七兵衛書出(※12)
O『吉川経冬(経安)軍忠状影写』(※11)
石礫傷計:4人
分類:明確な高低差・防御施設確認できず(作山ともあるが詳細不明)


天文21年7月23日志川滝山城


前回
石礫傷計:45人
分類:攻城戦(備後外郡志川敵城滝山切崩之時・備後外郡志川之敵城滝山落去之時)

 

 

 

応仁元年10月4日~天文21年7月23日までの合計


3(AB)+16(C)+10(D)+12(EF)+1(G)+1(H)+13(IJ)+3(K)+10(LM)+4(NO)+45(第一回)=118人

 

高所・防御施設:3/118
攻城戦:111/118
明確な高低差・防御施設確認できず:4/118

 

 ひとまず暫定的にはこうなりました。鈴木氏のデータを基準とした場合全160人中118人分まで集まった形となります。この時点でも明確な高低差の確認できない事例はごくわずかであり、ほとんどが城であったり櫓のような防御施設をめぐる戦いです。
 
 そして、それ以外にも偏りが見られるのもお気づきでしょうか?ABが戦場自体は京都の応仁の乱であり若干わかり難さがあったかもしれませんが、実は前回の志川滝山城合戦と今回の手柄傷を合わせた118人分は、全て中国地方の大名・領主勢力に申告されたものなのです。鈴木氏の基準でいうと118/160=73.7%という、戦国時代の石礫傷の大半と言っていい割合になります。

 

 次回はそれ以降の時期の石礫傷を取り上げます。残りの部分にも偏りが見られるのか、果たして城や防御施設とは無関係の石傷はどれだけあるのか、お楽しみに。

 

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引用元・参考文献
1:東京帝国大学文学部史料編纂所・編 『大日本古文書 家わけ九ノ一 吉川家文書』(東京帝国大学
2:山口県地方史学会・編 『防長地下上申 第1巻』(山口県地方史学会)
3:伊東尾四郎・編 『宗像郡誌 中編』(深田千太郎)
4:東京帝国大学文学部史料編纂所・編 『大日本古文書 家わけ第14(熊谷家文書,三浦家文書,平賀家文書)』(東京帝国大学
5:広島県・編 『広島県史 古代中世資料編5』(広島県
6:山口県文書館・編 『萩藩閥閲録 第4巻』(山口県文書館)
7:和田秀作・編 『戦国遺文 大内氏編 2』(東京堂出版
8:広島県・編 『広島県史 古代中世資料編4』(広島県
9:山口県文書館・編 『萩藩閥閲録 第3巻』(山口県文書館)
10:山口県文書館・編 『萩藩閥閲録 第2巻』(山口県文書館)
11:東京帝国大学文学部史料編纂所・編 『大日本古文書 家わけ九 別集 吉川家文書』(東京帝国大学
12: 山口県文書館 編・校訂『萩藩閥閲録遺漏』(山口県文書館)