東国剣記

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【戦国負傷統計を見直す1】戦国時代全体の石礫傷の4分1以上が天文21年7月23日に集中するという異様な偏り

 戦国合戦の負傷の種類別統計があるという話をこの時代に興味をお持ちの方は大抵耳にしたことがあるか、あるいは実際にそのデータを見た機会があるかと思います。その統計は鈴木眞哉氏が『刀と首取り』(2000年3月21日初版第一刷)(※1)『謎とき日本合戦史』(2001年9月20日第一刷)(※2)などで広く一般に向けてセンセーショナルに発表した説の根拠とされたもののことです。

 

 以下に、便宜上縦軸をパーセントではなく人数とした以外『謎とき日本合戦史』P115にあるのと同じ内容にしたグラフを上げます。『刀と首取り』P83にも戦傷の内訳はありますが、一年以上後に出た『謎とき』の方が全体的に傷の数も多くなっているので以後こちらを基準とします。

 ごらんのように矢・槍・鉄砲・石礫など距離を取って戦うことのできる武器による負傷がほとんどを占めます。氏はこれを根拠として戦国武士たちは基本的には白兵戦を嫌がるが、戦功の証拠である首を得るために仕方なく本来必要のない接近戦を行うこともある「遠戦志向」だったという説(氏によるとその場合もあくまで白兵戦らしく見えただけであるとのこと:『謎とき日本合戦史』P118、P160参照)を打ち立てたのです。

 

 この説は多くの人の興味を惹き、戦国時代を扱った他書籍・雑誌やネット記事・テレビ番組など様々なところで何度も取り上げられました。氏の説に影響を受けたと思しき創作物なども見られるようになったほどです。20年ほど経過した現在となっては完全に定番化したと見ていいでしょう。

 

 確かに戦国時代の膨大な文書から集めてきたというこのデータを根拠に戦国武士たちは「遠戦志向」であったと言われると、非常に説得力があり、反論の余地はなさそうに思われます。ただ、一世を風靡したと言っていいこの説ですが、実際にはあくまで戦国時代の戦いの一面を切り出したものに過ぎません。戦傷の情報源について鈴木氏は、

 

■『謎とき日本合戦史』
・材料としては、まず軍忠状の類がある。もっとも、ひと口に「軍忠状」といっても、名称などはさまざまであること、この時代になると、従軍者が差し出して証明してもらう形式よりも、主君のほうから提出を求める形のものが多くなってくることは、すでに述べたとおりである。いずれにせよ、客観的な確認を経ているか、少なくとも第三者のチェックを受けることを想定してつくられたものである。
 これ以外には「感状」なども利用できる。これは主君や指揮官から、戦功を立てた者にお褒めの言葉を記して与えるものであるが、それらの中には、その者の負傷した状況などに触れているものがある。


としていますが、「従軍者が差し出して証明してもらう」「主君のほうから提出を求める」と引用文にもあるように、これらに載る傷は基本的に合戦後に生存者によって申告されるものです。従って死に至った戦闘員の受けた傷のことはほとんどわからない訳です。一方で軍忠状・手負注文・感状の類では戦死者は大抵の場合「討死」「戦死」とだけ書かれ死因など滅多に添えられてはいませんから、戦国時代の数多い戦死者たちのほとんどは死因不明となります。これは誤解する側の問題であって鈴木氏の責任ではありませんが、戦国時代の戦死者の死因の統計という訳ではありません。そして当然ながら、戦功認定の余裕がないほどに損害を受けた軍勢では作られることが難しいという性質もあります。

 

 これらの点だけでも、軍忠状・感状などに記録された戦傷の統計だけでは戦国合戦の全貌を明らかにすることが難しいことがわかります。ただ、こういった欠点は私が言うまでもなく以前から指摘されていたとは思います。

 

 しかし問題はそればかりではありませんでした。今回紹介するものを始め鈴木氏の基準を参考に自分の手で軍忠状・感状などから確認しようとすると、申告された地域・勢力・合戦の種類などに関して著しい偏りを含むデータ群であることがわかってきたのです。手柄傷の統計を自分なりに作ってみようと試みて、その元になった軍忠状などの内容を見れば見るほどこれを戦国時代の合戦の全貌を示したデータであると錦の御旗のように使うのはいかがなものか、中身がこういった偏りを持っているということはもっと広く知られるべきなのではないか、という気持ちが湧いてきます。実際、このデータに対してはほとんどの人が何となく正しそうなブラックボックスとして扱い、その中身を改めて確認し分析してみようとは思わなかったのではないでしょうか?

 

 そして偏りの特に分かりやすい例を示すためにも、タイトルにあるように天文21年7月23日のたった一日の戦いに戦国時代全体の石・礫傷の4分の1以上が集中しているという件から始めることとしました。


 さて、その天文21年7月23日といえば、どんな戦いがあったか御存じでしょうか?中国地方の戦国時代に詳しい専門家・広島県郷土史に興味がある人・よほどの毛利氏ファン・あるいは私のように戦国時代の手柄傷を調べている…そういった人でないと正しく答えられないと思います。

 

 正解は志川滝山城合戦です。広島県福山市にある以下の城がその年のその日に落城したことが戦功文書類から確認できます。地図で見てわかるような山中にあり今では近くに四川(しかわ)ダムが作られているような立地であるなど、まさに山城です。その山も以下のダムパンフレットでは「急峻な山頂」と評されています。

 

 

参考:四川ダムのパンフレット(PDF文書)
ダム湖の愛称については、関係地域から応募を募り四川ダム湖名称検討委員会において「城山湖」が最優秀作品に選ばれました。四川ダムの北方にそびえる急峻な山頂には、かつて志川滝山城がありました。今は緑しげる山容が湖面に映じている姿を思い「城山湖」と命名されました。


 毛利氏が中国地方に覇権を打ち立てて行く上で意義のあった合戦ではあると思いますが、それにしてもこの戦いの名前や城名を聞いて果たしてどれだけの人がピンとくるのでしょうか?この決して知名度のあるとは言えない合戦の説明のため概要を記した史料を引きたいと思いますが、負傷者リストは豊富に残っていても合戦の経緯やアウトラインがわかる同時代史料は見当たらないので、仕方なく軍記物の『陰徳太平記』からどのような戦いだったかを見てみることにします。軍記物の常で天文二十年のこととする年代の誤りが見られますが、そこは気にせず読み進めて下さい。


■『陰徳太平記』巻十八 備後国志川滝山落城之事(※3)
・備後の国外郡の志川滝山の城可被攻とて、同二十年七月毛利右馬頭元就、同嫡子備中守隆元、吉川治部少輔元春、小早川左衛門佐隆景父子四人、三千八百余騎にて彼の表へ打出て給ひ、同き二十三日諸手一時に攻上る、
 城主宮ノ入道光音は、聞こる大功の者なりけれは、従者何れも勇士共にて多勢を屑(もののかず)ともせず、僅三百八十騎を東西に分ち、南北を助け、敵労るれば打つて出で、強けれは引いて入り、強柔を相兼ね奇正時を以て戦ひける故、吉田勢に坂新五左衛門、遠藤左京ノ亮など手を負ひ、吉川勢に今田上野介経高、吉川左近太夫、平佐右衛門大夫柏村四郎右衛門、十川孫太郎、綿貫又七郎、樋口彦六、相良又五郎、綿貫助次郎、河村与次郎、樋口三郎兵衛、栗屋左京亮、石田新四郎、巳上十九人、小早川勢に兼久又六、谷権兵衛等八人矢疵鎗疵蒙りけり、
 され共諸勢些(あと)も臆せず、手負を踏越乗超え、呼(をめ)き叫んで攻め入りける間、城中さすか小勢なれば諸手一度に労れて、一方破るるや否や四方共に崩れて落ち行きける故、光音も今はせん方なく、搦手よりひそかに落ちて、備中国に暫く蟄居してぞ居たりける、


 以上が「備後国志川滝山落城之事」の全文です。尼子氏側の宮氏が小勢で立て籠もり、四方から攻めあがる毛利勢相手に巧みな戦術で奮戦するものの、結局衆寡敵せず城主宮光音は搦手から備中に落ち延びていくという内容になっています。

 

 『陰徳太平記』はとにかく元就を始めとして毛利氏一門を美化している、とあまり評判のいい軍記物ではありませんが、この「備後国志川滝山落城之事」の内容に関しては登場する人名が『大日本古文書』の『吉川元春軍忠状』と大体一致し、作者が吉川家の内部情報を得た上で書いているのも明らかです。また小勢ながら緒戦では宮氏の奮戦が目立つ形にもなっており、『陰徳太平記』の一大欠点とされる毛利家一門への過剰な顕彰・忖度を心配するような内容でもありません。よってこの合戦に関しては極端な誤りもないのではないかと思います。石傷が載っていないものも含めてこの合戦関連文書も確認しましたが、戦いの日付はすべて7月23日となっています。よって『陰徳太平記』にあるように毛利軍が小勢の宮氏が立て籠もる志川滝山城を包囲し、7月23日に総攻撃をかけて落城させたという流れも信用できそうです。

 

 先ほどの『謎とき日本合戦史』のデータでは、戦国時代(応仁の乱島原の乱)全体の石疵・礫疵は160人分となっていました。その4分の1ですから40人分以上はなければいけません。当然ながら、鈴木氏が行ったように軍忠状・感状などを情報源として調べる必要もあります。果たしてこのマイナーな(失礼)地方合戦のたった一日の戦闘で戦国時代全体のデータに大きく影響するほどの負傷者数が記録され、またそれが軍忠状・感状などの形で残っているのでしょうか?

 結果は以下3件の文書から採取して作成した石礫傷受傷者リストをご確認ください。

 

■『毛利元就同隆元連署軍忠状』(※4)

■『吉川元春軍忠状』(※5)
■『萩藩閥閲録』巻48 阿曽沼六左衛門(※6)   

 

 ごらんの通りです。このように45人ほど確認できました。『謎とき日本合戦史』のデータでは戦国時代の石・礫傷は160人分とあったので、志川滝山城の石・礫傷は45人/160人=戦国時代全体の約28%になります。

 

 ところで、今回のリストでいう8番と11番が共に「中間次郎五郎」と同じ人名になっています。これを重複と見るかどうか迷いましたが、それぞれ別人と見て計算に入れることにしました。苗字と諱・あるいは官途・受領名などが一致すれば可能性の高い重複として検討できると思いますが、ほかにもリストには苗字不明の三郎五郎、太郎次郎、四郎次郎、次郎太郎、次郎三郎、二郎三郎などの名前が見られるように、次郎五郎もそういった中間の名乗りによくあるバリエーションのひとつに過ぎないとも考えられます。

 

 また、今回の様に石傷受傷者だけを抽出すると8番と11番で近いグループにいるように思われますが、実際には『毛利元就同隆元連署軍忠状』の中で30人分以上離れており別のグループの同じ通称の別人と見た方がよさそうです。よって私はこの2人の「中間次郎五郎」を重複とせず45人としました。

 


 以上、戦国時代の負傷統計の中身に著しい偏りがあることを示す狙いもあって、志川滝山城合戦の石傷から話を始めることとしました。戦国時代の負傷統計があると聞くと、満遍なく全国各地から集められた戦傷の統計をイメージするのが一般的な心理かと思います。誰もが知っている戦国の大規模な有名合戦で毎回戦闘員の負傷が記録されており、それを集計したのが例のデータであるのだろう、と。しかし実際は違っています。この凄まじい偏りがある中身が戦国時代の全負傷データとされるものの間違いのない一つの現実なのです。

 

 次回以降は滝山合戦以外の軍忠状・手負注文・感状などから確認した戦国の石傷をすべて書き出し、ブラックボックスの中身を徹底的に明らかにします。そちらにも見過ごせない偏りがありますので是非ご覧ください。

 

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引用元・参考文献:
1:鈴木眞哉・著 『刀と首取り』(平凡社
2:鈴木眞哉・著 『謎とき日本合戦史』(講談社
3:早稲田大学編輯部・編 『通俗日本全史 第13巻』(早稲田大学出版部)
4:東京帝国大学文学部史料編纂所・編 『大日本古文書 家わけ八ノ一 毛利家文書』(東京帝国大学
5:東京帝国大学文学部史料編纂所・編『大日本古文書 家わけ九ノ一 吉川家文書』(東京帝国大学
6:山口県文書館・編 『萩藩閥閲録 第2巻』(山口県文書館)