【刀剣】『北条五代記』関東長柄刀流行の傍証となる軍役文書?
後北条氏の遺臣・三浦浄心は『北条五代記』で、かつて戦国時代関東の若い輩の間で、柄を長く拵えた刀が流行したことを記しています。それは書かれた時代でいうところの鍵槍のように流行したものですが、この時代の人々の感覚では珍奇に見えたであろう刀のようです。
■『北条五代記』寛永本 「三五 関東長柄刀の事 付かぎ鑓の事」(※1)
・見しは昔、関東北条氏直時代まで、長柄刀とて、人毎に、刀の柄を長くこしらへ、うでぬき(刀を握った時手から離れないようするための紐)をうて、つかにて人をきるべく体たらくをなせり。当世は、かぎ鑓とて、くろがねを長くのべ、かぎをして、鑓の柄に十文字に入、其先に小じるしを付、柄にて人をつくべき威風をなし給ふ。物ずきも時代によりて替と見えたり、といへば、人聞て、其むかしの長柄刀当世さす人あらば、目鼻のさきにさしつかへ、見ぐるしくもおかしくもあらめ、とわらひ給ふ所に、昔関東にて若き輩、皆長柄刀をさしたりし。
こちらは以下のように鹿島神、かしまの住人(原文ママ)飯篠山城守家直、林崎勘助勝吉(原文ママ)、田宮平兵衛成政、といった話題が出ることもあり、武芸研究でもよく引かれる記事です。
■『北条五代記』寛永本 「三五 関東長柄刀の事 付かぎ鑓の事」
・それ兵法のおこりを尋るに、唐国にては孫子・呉子、日本にては鹿島大明神つかひはじめ給ふゆえに、兵法とうぜん(東漸?)に有、といひ伝へり。鹿島は武家護持の神にてまします。
・鹿島は勇士を守り給ふ御神、末代とても誰かあふがざらん。然に、かしまの住人飯篠山城守家直、兵法のじゆつを伝へしよりこのかた、世上にひろまりぬ。此人中古の開山也。
さて又長柄刀のはじまる子細は、明神老翁に現じ、長柄の益有を、林崎勘助勝吉と云人に伝へ給ふゆへに、勝吉長柄刀をさしはじめて、田宮平兵衛成政といふ者に是を伝ふる。成政長柄刀をさし、諸国兵法修行し、柄に八寸の徳、みこしにさんぢうの利、其外神妙秘術を伝へしより以後、長柄刀を皆人さし給へり。然に成政が兵法第一の神秘奥義といつぱ(言ふは)、手に叶ひなばいか程も長きを用ひべし。勝事一寸まし、と伝たり。
長柄刀の起こりは、鹿島明神が老翁の姿をとって林崎勘助勝吉という林崎甚助を思わせる人物に長柄の益を伝えたことに始まると説明されています。この長柄刀ですが、実際に戦国時代後北条氏が発給した軍役定書の中に、それと考えられる刀を装備するように指示しているものがありました。全戦闘員39人中18人と「馬上」の割合が高く、またそれに付き添うと考えられる同数の「馬之口取」が見られる少々特殊な編成なので、この機会に紹介しましょう。
■『北条家朱印状』〇山崎文書(※2)
・定遠州(徳川氏)へ加勢衆之事
八騎 遠山(直景)自身
一騎 遠山左馬允
一騎 中条
一騎 会田
一騎 本田
二騎 嶋津
二騎 伊丹
二騎 千葉(直胤)殿
以上 十八騎
十八人 馬之口取
十八本 鑓
弐挺 鉄砲
一本 大小旗
以上 卅九人
合五十七人
一、馬上一騎之仕立、肪(頬)当迄可被申付候、第一遠国石地ニ候間、馬ニ極候、此一ヶ条を別而入精、可被申付候、
一、馬之口取、皮笠・手蓋(籠手)迄可被申付候、
一、指刀、何も遺念可被申付候、つかの短、不被見候間、馬上・歩者、共に相当之長つかを可被申付候、
一、鑓二間々中柄、法之長ニ候、金を新推立尤候、
(中略)
(「禄寿応穏」朱印)
十月二日(天正十二年)
遠山右衛門大夫殿
天正12年10月2日付けのもので「定遠州へ加勢衆之事」とあるように、この時期の後北条氏の同盟勢力であり、小牧・長久手の戦い以来羽柴秀吉と対立する徳川家康への加勢のため派遣される遠山右衛門大夫以下の軍勢に対する定書となります。この10月は下記年表を参考にする限り特に大きな戦いは起こっていないが秀吉と家康の和解まであと一月程度を待たねばならないという、目立った動きは見られないにしろ戦役にはまだ区切りがついていない時期のようです。
参考:「小牧・長久手の合戦」関連年表
http://www.city.komaki.aichi.jp/admin/soshiki/kyoiku/bunkazai/1_1/2/bunkazai/9161.html
8月28日:秀吉軍、小折に兵を進める
11月11日:秀吉軍と家康軍が和解
さて、後北条氏の軍役定書における刀に関する注意というと、藤木久志氏の『刀狩り』(※3)にも引用されている以下のような文言が知られています。
■『北条氏政着到書出写』〇井田氏家蔵文書(※4)『戦国遺文後北条氏編4』
一、童之刀も不指体之者、不可入着到之数事、
■『北条氏政カ着到定書』〇千葉市立郷土博物館所蔵原文書(※5)『戦国遺文後北条氏編5』
一、卅人之内、自元刀も不指童之類、人数不可入事、
このように刀も差していない子供(の格好やその類の者)を軍役で定められた人数(の数合わせ)として連れて来てはいけないという指示で、北条家中の兵は下に至るまで基本的には何らかの刀を差していることがわかります。しかしこちらには特にどういった刀を差すようにという指示はなく、山崎文書朱印状の「指(差す)刀)」に関して「馬上・歩者、共に相当之長つかを可被申付候」という文言のように刀の種類をわざわざ指定した定書となると非常に珍しいようです。
『北条五代記』「関東長柄刀の事 付かぎ鑓の事」は北条氏時代を生きた老武士が書かれた時代の鍵槍の流行と比較して武具に得失(長所短所)があることを論じるという体裁ですが、
■『北条五代記』寛永本 「三五 関東長柄刀の事 付かぎ鑓の事」
・人聞て、其むかしの長柄刀当世さす人あらば、目鼻のさきにさしつかへ、見ぐるしくもおかしくもあらめ、とわらひ給ふ所に、昔関東にて若き輩、皆長柄刀をさしたりし。老士の有けるが、此よしを聞、耳にやかかりけん、申されけるは「いかにや若きかたがた、さのみむかしをわらひ給ひそ。古今ことなれども、其心ざしはおなじ。得のみ有て失なく、失のみ有て得なき事、有べからず、と、
・むかしの武士も、長きに益有にや、太刀をはき給へり。長刀(なぎなた)は古今用ひ来れり。扨(さて)又長柄の益といつぱ(いふは)、太刀はみじかし、長刀は長過たりとて、是中を取たる益なり。又、刀・太刀・長刀を略して、一腰につづめ、常にさしたるに徳有べし。
・それ関東の長柄刀、目鼻のさきのさし合は、すこしき失なり。敵をほろぼし我命を助けんは大益なるべし、と申されければ、若き衆返答なかりし。
このように今の時代では目鼻の先にさしつかえるような見苦しいものに映るだろうが、欠点といえばそれくらいの少しのもので、むしろ長柄刀は益の多い武器であるように語られています。ちなみに『卜伝百首』においては、
■『卜伝百首』(※6)
・柄はただ、細く長きを好むとも、さのみながきは、また嫌ふなり。
と、柄は細く長いものがいいがあまりに長過ぎる柄は嫌うべきという教えがあり、尋常な打刀としての使いやすさを考えた場合でしょうが、ある程度の長さはともかく過度に長い柄は推奨されておりません。しかし『北条五代記』該当記事の語り手である老武者は「太刀はみじかし、長刀は長過たりとて、是中を取たる」ものと見ており、それだけに収まらない役割を期待しているようにも思われます。『五代記』に語られる長柄刀の柄がどの程度の長さか文中からは判然としませんが、多少の誇張は考えられるにしても「さす人あらば、目鼻のさきにさしつかへ」と表現されるほどであり、薙刀と刀の「中を取たる」という機能を持つとすると、長巻を思わせるような相当に長い柄を持つ刀となるのでしょうか。どういった柄であれ『五代記』の通りの機能であるとすれば多少の欠点はあるにしろ、戦いの場においては通常の打刀以上の戦力として期待できるもののようです。
ただ、今回の山崎文書『北条家朱印状』において「馬上・歩者、共に相当之長つかを可被申付候」と指定された理由を、そのような長柄刀の機能評価のみによると見るのは早計かもしれません。『北条五代記』の他の記事や『信長公記』首巻を見て行くと、腕貫とセットになった長柄刀を機能以外と考えられる理由から差しているケースがあるのです。
■『北条五代記』寛永本 「二八 福島伊賀守河鱸を捕手柄の事」(※1)
・然にいせ(伊勢)備中守・山角紀伊守・福島伊賀守三人は、氏直はたもと(旗本)の武者奉行、此等の人は、数度の合戦に先をかけ、勇士のほまれをえ(得)、其上軍法をしれる故実の者也。ていれば、伊賀守は、生れつきこつぜんと異様にして、大男大髭有て、形体風俗人にかはつて(変わって)いちじるし。氏直公へ日に三度出仕すれば、刀・脇指・衣類までも三色に出立、長柄刀にうでぬき打てさす時もあり、みじか刀の柄をあかき糸にてまくもあり、虎の皮のしんざやまき(新鞘巻)の太刀をさす事もあり。然共氏直は御自愛故か、是を見とがめ給はず。諸傍輩もそしりあやしむ事なし。
こちらに登場する福島伊賀守は生来異様な風体であり、しかも「刀・脇指・衣類までも三色に出立」「長柄刀にうでぬき打てさす時もあり」「虎の皮のしんざやまきの太刀をさす」など出仕する際も好んで派手な異装をする人物でしたが、戦場における勇士ぶりや軍法の故実を知る人物であることから主人北条氏直に寵愛されており、他人と変わった格好を謗ったり怪しんだりする同輩もいなかったという逸話です。
つまり日常の出仕において長柄刀を差すことは、本来であれば主君から叱責され周囲からも謗られかねない派手好みのファッションに含まれるということです。長柄刀がフォーマルな場で好まれない傾向は『信長公記』巻首にも見られます。
■『信長公記』巻首(※7)
A:信長御焼香に御出づ。其の時の信長公御仕立、長つかの大刀、わきざしを三五なわにてまかせられ、髪はちやせん(茶筅)に巻き立て、袴もめし候はで、仏前へ御出でありて、抹香をくはつと御つかみ候て、仏前へ投げ懸け、御帰る。御舎弟勘十郎は折目高なる肩衣、袴めし候て、あるべき如きの御沙汰なり。三郎信長公を、例の大うつけよと、執々評判候ひしなり。其の中に筑紫の客僧一人、あれこそ国は持つ人よと、申したる由なり。
B:山城道三は町末の小家に忍び居りて、信長公の御出の様体を見申し候。其の時、信長の御仕立、髪はちやせんに遊ばし、もゑぎの平打にて、ちやせんの髪を巻き立て、ゆかたびらの袖をはづし、のし付の大刀、わきざし、二つながら、長つかに、みごなわにてまかせ、ふとき苧なわ、うでぬきにさせられ、御腰のまはりには、猿つかひの様に、火燧袋・ひようたん七ツ、八ツ付けさせられ、虎革、豹革四ツがわりの半袴をめし、御伴衆七、八百、甍を並べ、健者先に走らかし、三間々中柄の朱やり五百本ばかり、弓、鉄砲五百挺もたせられ、寄宿の寺へ御着きにて、屏風引き廻し、
一、御ぐし折り曲に、一世の始めにゆわせられ、
一、何染置かれ候知る人なきかちの長袴めし、
一、ちいさ刀、是も人に知らせず拵えをかせられ候を、ささせられ、御出立を、御家中の衆見申し候て、さては、此の比たわけを態と御作り候よと、肝を消し、各次第次第に斟酌仕り候なり。
Aの引用部分は父の葬儀において仏前に抹香を投げつける有名な場面ですが、信長の「長つかの大刀、わきざし」を含むその異装は折り目正しい服装・作法で参列していた弟勘十郎との対比がなされています。Bでは「ちやせんの髪」「ゆかたびら」「長つか(の大刀、脇差)」から一転して「折曲」「長袴」「ちいさ刀」の正装に変貌して見せ、信長をたわけと侮っていた家臣たちや密かに覗いていた斎藤道三の度肝を抜くという劇的な場面です。
要は長柄刀と腕貫のセットは正装とはかけ離れたものとして「大うつけ」「たわけ」と言われた時期の信長の服装に含まれるということで、長柄刀は関東に限らず然るべき場に出ることの憚られる異装扱いであったと考えられます。こういった情報を踏まえていくと、最初に引いた『北条五代記』「関東長柄刀の事 付かぎ鑓の事」において「昔関東にて若き輩、皆長柄刀をさしたりし」というのはただ漠然と若い侍であれば誰もがと言っているのではなく、良識ある大人からの批判的な目を厭わない「元気のいい」タイプの若者がそれを好んで差していたと考えられるのではないでしょうか。
更にこのファッションという観点に着目して後北条氏軍役関連文書を見て行くと、興味深い傾向を見出すことができます。以下、傍線部だけでも確認してみてください。
■『北条氏忠判物写』〇島津文書(※4)
・如兼約、馬上五騎・鉄砲放廿挺、綺羅美輝ニ被致立、
■『北条氏忠朱印状』〇山崎文書(※4)
・右、向足利御行火急候、然者、誠近所御陣ニ候間、着到無不足、綺羅美輝致之、可走廻者也、仍如件、
■『北条氏直書状』〇市谷八幡神社文書(※4)
一、弓・鉄砲・鑓なとハ、調次第如何ニも奇麗ニ尤候、
■『太田(北条)源五郎カ朱印状』〇道祖土文書(※8)
・改定着到之事、
一本 指物四方竪六尺・横四尺、持手具足・皮笠、金銀之間、紋可出、皮笠何も同然、
一本 鑓二間々中柄、金銀之間相当ニ可推、持手具足・皮笠、
一騎 馬上、具足・甲大立物、金銀何ニ而も可推、手蓋、
已上三人
■『北条氏政朱印状』〇道祖土文書(※4)
一、一騎、自身之仕立、馬鎧等迄、綺羅美耀ニ可致之、諸武具委細、先着到ニ載之事、
後北条氏の軍役文書にはこのように戦場において、綺麗に、煌びやかな装いをするようにと家臣たちに注意させる文言が目につきます。自身が騎馬武者としての軍役を課された道祖土(さいど)氏(道祖土図書助)は自分を含む戦闘員の具足類だけでなく、馬用の鎧までも煌びやかにせよと指示をされています。
しかも単純に金銀で装飾されていればいいという程度ではなく、以下のように古びた道具・装束でみすぼらしく見えないよう補修したり新しくするようにという指示がいくつも見られます。
■『北条氏邦朱印状』〇出浦文書(※8)
一、さし物□□〔四方〕地くろ、いつれもあたらしく可致事、
■『北条氏照朱印状写』〇武州文書所収多磨郡木住野徳兵衛所蔵文書(※4)
一、天下御弓矢立の儀ニ候間、諸侍之嗜此時候、鑓・小旗を始、諸道具新敷(あたらしく)きらひやかに可致事、
■『北条家朱印状』〇川匂神社文書(※5)
一、はく(箔)のはけ(剥)そん(損)したる鑓不可持、おし(押)なを(直)すへし、
一、やりして(槍四手:槍印)悉新あかく可致直、
一、つふれ皮笠きせへからす、箔悉おしなをすへし、
一、うちわ悉直、箔可置、
一、持小はた・さしこはた共ニ、或きれ(切れ)、或ふすひ(燻)たる不可持、
■『北条家朱印状』〇川匂神社文書(※5)
一、小旗・指物以下古をは皆可致直事、
一、やり之箔可推直、並 して(四手)新致之、やりいかにも能ミかく(磨)へし、
一、うちわ為損をハ皆致直、箔可推直事、
一、諸武具何をも無不足、如定遣念、無見苦敷様ニ、如何様ニもけつこうに可致立、取分立物金銀、少も無古光様ニ可致之事、
■『北条氏政朱印状』〇道祖土文書 前述「馬鎧等迄、綺羅美耀ニ可致之」とあるのと同一
一、鑓、金銀何を成共、箔可推直事、
(中略)
皮笠・立物・具足類之物をハ、悉修覆弃(奇)麗ニ致立、小籏類見苦敷をハ、何をも新可仕立、
■『北条氏邦朱印状』〇逸見文書(※9)
・きれ小旗・さひ鑓法度事、
武具等の剥げた金銀箔は新しく押し直し、潰れた皮笠や切れていたり煤けた(ふすひたる)旗は許されず、錆び槍などもご法度とされています。「つふれ皮笠きせへからす、箔悉おしなをすへし」を見る限り下級戦闘員のかぶる皮製の陣笠も金箔で煌びやかにされていたようです。しかもこれらは努力するようにというレベルの指示ではなく、軍役を課された者の義務とされているのです。武具類は煌びやかに光り輝くように仕立てることが常に求められ、古びて見栄えの悪くなった武具・旗などはことごとく却下され、そういった古いもので間に合わせようとすることは軍役の義務を果たしていないとみなされるわけです。
ほか、服装を特定の色(黒)で統一させようとする指示も見られます。
■『北条氏邦朱印状写』〇諸州古文書十二(※5)
・歩者まて黒きはをりおきせ、くろき物おかふらせへし
■『北条氏邦朱印状』〇逸見文書 前述「きれ小旗・さひ鑓法度事」とあるのと同一
一、武具ハてかい・はいたてまていたすへし、中間・小物迄、黒可致事、かんように候、具足ハ、雨風ニ当候てもそんしさるやうニ可致候、はおりも黒木綿可然候、
■『北条氏邦朱印状』〇出浦文書 前述「さし物□□〔四方〕地くろ」とあるのと同一
・くろはをり(黒羽織)へいせい(平生)き(着)さるやうにたしな(嗜)ミ之事、
中間・小物等の戦闘補助要員に至るまで統一された服装が要求されています。ただし本当に見てくれだけではなく風雨に晒されても具足が傷まない作りにするようにという指示や、戦さの場で求められる黒羽織は普段の暮らしでは着ないようにという指示もあります。逆に言うと戦場はやはり一種のハレの場として普段着ることのできない特別なファッションが許される場であったとも言えるでしょう。
このような煌びやかで整えられたユニフォームの軍団を編成することによって士気を高めるためだったのか、あるいは豊かで統率の行き届いた軍勢の印象を与え敵軍を威圧するためだったのかその目的ははっきりしませんが、後北条氏は自軍戦闘員の装いに対し非常に気を遣い、神経を砕いていたことは確実です。むしろ、派手で見栄えのいい軍団を作ることに情熱を注いでいたとさえ言えるでしょうか。
今まで引用してきた後北条氏軍役関連文書を参考にすると、長柄刀装備の指示がある山崎文書『北条家朱印状』の「一、鑓二間々中柄、法之長ニ候、金を新推立尤候、」という文言も、定め通りの二間半の槍に新たに金箔を押して装飾しておく指示であるとわかります。ほか、いくつもの文書に山崎文書『北条家朱印状』同様の「皮笠」の装備に関する記述があり、『太田(北条)源五郎カ朱印状』『北条氏邦朱印状』には「手蓋(てかい)」の記載がありました。従って山崎文書のものに見られる「鑓二間々中柄」「金を新推立尤候」「皮笠・手蓋」に関する指示や語彙は、別段他の後北条氏軍役文書から逸脱していないと考えられます。その中にあって長柄刀はどうにも特殊な指示に見えるわけです。やはりこの長柄刀に関してはこちらの文書特有の事情があったと見た方がいいかもしれません。
ここで改めて考えてみたいのが、天正12年山崎文書『北条家朱印状』は、小牧・長久手の戦い以来の戦地である東海地方という遠隔地へ派遣する軍勢への特別な定書であるということです。そして派遣されるのは上級武士自身が課されることの多い「馬上」やそれを補助する要員の割合が多い、いわば精鋭と目される一団です。
問題の長柄刀には『北条五代記』を見る限り、特に関東で流行した平時のフォーマルな場には適さない派手好みの異装という面がありました。そして合戦の場は「くろはをりへいせいきさるやうに」(出浦文書)のように平生着ることのできないファッションを披露できる場でもありました。
つまり、日ごろから戦場で自軍の兵に華やかで統一された装いをさせることを重要視する後北条氏にとっては、他地域の同盟勢力の家康やその対抗者である秀吉の軍勢にそれを見せつけ印象づけられる機会でもあった。そのために敢えて派遣する精鋭の装いをいつもの煌びやかさに加え、差す刀も関東の派手好みの輩に流行する異装の長柄刀に統一させて、一層印象を強いものにすることを狙った。あるいはそれに加えて後世の傾奇者のような目立ちたがりの心理を持つ武士たち好みの格好で統一させて、士気の向上も図った。もちろん、その長柄刀は短所はあるものの使い方次第では通常の打刀以上の戦力としても期待できるものでもあった。このような事情から山崎文書『北条家朱印状』では「馬上・歩者、共に相当之長つかを可被申付候」という指示が出されたと推測できるのではないでしょうか?
以上、『北条五代記』にある長柄刀流行を示す同時代の根拠とまでは行きませんが、その傍証くらいにはなりえるかもしれない後北条氏軍役定書における指示について紹介し、またその理由について考えてみました。調べ方が甘かったのか今回はこの刀が登場する文書は一件のみでしたが、今後も北条氏勢力圏内で流行の根拠、あるいは『信長公記』巻首のように関東以外での長柄刀の姿についてもう少し探ってみたいと思います。
引用元・参考文献
1:萩原龍夫・校注 『戦国史料叢書1 北条史料集』(人物往来社)
2:埼玉県教育委員会・編 『埼玉史料叢書12 中世新出重要史料二』(埼玉県)
3:藤木久志・著 『刀狩り ―武器を封印した民衆―』(岩波書店)
4:杉山博 下山治久・編 『戦国遺文後北条氏編4』(東京堂)
5:杉山博 下山治久・編 『戦国遺文後北条氏編5』(東京堂)
6:今村嘉雄・編 『日本武道全集2』(人物往来社)
7:桑田忠親・校注 『戦国史料叢書2 信長公記』(人物往来社)
8:杉山博 下山治久・編 『戦国遺文後北条氏編3』(東京堂)
9:杉山博 下山治久・編 『戦国遺文後北条氏編2』(東京堂)