東国剣記

東国の剣豪、武芸、中世軍記、そのほか日本の合戦諸々について扱うブログです。

【薙刀】薙刀の文献上の初出は?(後) 1040年『春記』の例はなぜ不確実な初見とされるのか 及び中世「刀」と呼ばれた短い刀剣と平安時代の「長刀(なががたな)」について

 薙刀の初見に関する続きです。前回は久安6年(1150年)~平治元年(1160年)に編纂された『本朝世記』の久安2年(1146年)3月9日の記事を引き、『世界大百科事典』のいう薙刀の初見を確認しました。今回は近藤好和氏の『弓矢と刀剣』にある以下の説を確認します。


■近藤好和『弓矢と刀剣』(※1)
・一方、中世を代表する長柄の武器である長刀は、不確実な例だが、十一世紀には見えている(『春記』長暦四年<一〇四〇>四月十一日条)。

 

 不確実ではあるが『本朝世記』の例を文中の年代から数えても100年以上遡り得る薙刀の初見があるとのことです。では、早速その藤原資房の日記『春記』本文を見てみましょう。藤原定任という人物の街中での暗殺事件の第一報に「長刀」が現れます。


■『春記』長暦四年四月(※2)
十一日乙未 天晴、
・定任昨日申剋許向叔(親か)父為任法師宅、秉燭(へいしょく 夕方)帰家之間、件宅在四条、四条町尻帯胡籙(やなぐい 矢の入れ物)之者二人提長刀之者一人相党テ立云々、此間不到定任宅不及一町云々、定任自四条大路欲着彼門之間、件胡籙者走来、先射牛飼童、々々々已仆臥、頻放矢射車、定任自車前指出放音問由緒之間、従車後射定任、即自肩射融前方、即自車落仆畢、此間賊類差東西逃去已畢、定任雑色、一人走遁告彼家人、良久之家人等来昇乗車中、将到彼家療治、言語不廻(通か)、今朝遂以亡逝了云々、


 父親宅から四条町の自宅へ牛車で帰る定任を襲うため待ち構えていた内、胡籙を帯びた者が二人、「長刀」を提げていたのが一人とあります。中世軍記でも薙刀は「長刀」表記が主に使われるので素直にこれを長刀の初出として見たくなりますが、こちらは近藤好和氏によると「不確実な例」とされています。なぜでしょうか?

 

 『弓矢と刀剣』には理由が書かれていないので推測になりますが、恐らく「長刀」表記されたものがあの薙刀であるとは限らないという問題からではないかと思います。この事件に関しては牛童にしろ定任の牛車に何度も向けられたものにしろ定任の肩を射通して致命傷になったものにしろ、攻撃は全て弓矢で行われたため、もう一人が提げていた「長刀」が結局具体的にどういうものだったか知る術はありません。何しろ「長刀」は先入観を捨てて字だけ見れば「長」「刀」ですので、ただ「長」めの「刀」を手にしていた可能性もあるわけです。なお平安~室町前期の「太刀」ではない「刀」の方は鎌倉時代史書吾妻鏡』に、

 

■『吾妻鏡』廿一日(※3)
・土石を運ぶ疋夫等の中に、左眼盲の男あり。(中略)佐貫四郎大夫御目(旨か)を伺ひて面縛するのところ、懐中一尺余の打刀を帯す。ほとほと寒氷のごとし。

 

とあるように、後世は大小セットのうちの大となった打刀と呼ばれるものでさえ一尺余程度で懐に入るという短い刀剣を指す言葉なので、短い「刀」の中では「長」いものという若干ややこしい話になります。ちなみに「(寒)氷のごとし」というのも後に『今昔物語集』『延慶本平家物語』の例が出ますが、主に短刀の鋭さを表すことに用いられる一種の定型表現です。

 

 しかし当時の感覚として本当に「長刀」と書いて「長い」「刀」と解することはあるのでしょうか?現代人の感覚で推測しても埒が明かないので、手がかりを得るため、平安時代の『色葉字類抄』の増補版である鎌倉時代初期の辞書『伊呂波字類抄』から「長刀」を確認してみましょう。

 

■『伊呂波字類抄』(※4)
・長刀 ナカゝタナ ナキカタナ
・銀装 唐令云 銀装長刀

 

 「長刀」に二つの読みがあり、前者の「なかかたな」の方は「なか(なが)」と読ませる辺り長い刀の存在を示しているように読めます。「唐令云」の方は銀で外装を飾られた長い刀剣と取れそうです。他にも『伊呂波字類抄』には「薙刀」と書いて「ないかたな」と読ませるものがあり、そちらは「長刀」の二つ目の読みである「なきかたな」と同義で我々の知る薙刀を示しているようにも思われます。しかしこれではまだ実態をはっきりさせたとは言えません。

 

 今度は『春記』とは違い、実際に使用された「長刀」の用例を平安時代当時の訴状から具体的に見てみましょう。

 

■『草部石清申状』(※5)
別当殿(検非違使などの長官や寺の僧官)火長(衛門府検非違使など治安維持を担当する機関の下級職員)□□堵等、相催(催促)件地利米(借米の利子)之間、件火長搦取(捕縛・拘束する)田堵(たと:田地の請作者)等□□、将(ここは「引き連れる」の意か)出寺内之剋、石清不知子細、欲罷向彼庭□□火長猥抜長刀打伏石清、依将参
(以下略)
天治元年(1124年)十月 日 草部石清

 

 寺領田の借米の利子(利米)返済と催促を廻ってトラブルがあったのか(別当殿火長□□堵等、相催件地利米之間)田の請作者である「田堵」の一人が寺の中で別当配下の火長に拘束され(件火長搦取田堵等)、それを引き連れた一行が寺から出て行く時(将出寺内之剋)に事情を知らず(石清不知子細)寺の中に向かおうとしていた(欲罷向彼庭)草部石清が遭遇し「火長猥りに長刀を抜き石清を打ち伏せ」という事態が起きたと考えられる内容です。

 

 「長刀」という単語は以下『平安遺文フルテキストデータベース』で検索してもこちらの『草部石清申状』1件のみです。一方で通常は太刀と同義である「大刀」が28件、「太刀」は11件とまとまった数が確認できます。この時代において「長刀」がいかにレアな語彙であるかがおわかりいただけるでしょうか。

 

平安遺文フルテキストデータベース 検索式:【コンコーダンス表示】キーワード='(長刀)' 
平安遺文フルテキストデータベース 検索式:【コンコーダンス表示】キーワード='(大刀)'
平安遺文フルテキストデータベース 検索式:【コンコーダンス表示】キーワード='(太刀)'

 

 

 この『草部石清申状』の「長刀」に関して気になるのが「抜長刀」という点です。『平安遺文』内で「長刀」が一例という点を見てわかる通り、平安時代薙刀関連のサンプル自体が少ないので同時代に関しては今回確認が取れませんでしたが、時代が下った鎌倉時代室町時代前期辺り成立の『平家物語』諸本など、中世軍記においては一般に薙刀の鞘は「抜」くではなく「はず」すものとされます。以下具体例です。

 

■『延慶本平家物語』第二末(※6)
・其前に浄衣着たる男の、大長大刀(おおなぎなた 『延慶本』のこのパートでは「長大刀」でなぎなた)の鞘はづして立向けるを、小長大刀(こなぎなた)にて弓手の脇をさして、投臥たり。

■『長門本平家物語』巻第八(※7)
・馬よりとびおりて、弓をからとなぎすてけり、あれはいかにと見るところに、箙をとき捨て、つらぬきて、好む長刀のさやはづして、

■『覚一本平家物語』巻第四(※8)
・ここに五智院の但馬、大長刀のさやをはづいて、只一人橋の上にぞすすんだる。
巻第十一
・いかものづくりの大太刀ぬき、白柄の大長刀のさやをはづし、


 一方、腰に佩く太刀や差す刀などは鞘から「抜」く物であるという認識が、『草部石清申状』と同じ平安時代ながらそれ以前の時期の日記『小右記』や、逆に後の時期である平安時代末期成立となる説話集『今昔物語』などから伺えます。そのため、間の時期にある『草部石清申状』も近い認識があると見られそうです。せっかく『小右記』本文を実見するので今回参考にした『弓矢と刀剣』に、

 

■近藤好和『弓矢と刀剣』
・もっとも、太刀と刀の機能表現の相違は、藤原実資(九五七-一〇四六)の日記『小右記』にも明らかであり、『今昔物語集』よりも一世紀以上前から太刀や刀の中世化は始まっている。


と書かれるような『小右記』における太刀と刀の機能表現の違いなども「抜」と関連して具体的に見てみましょう。以下、検討の際の便宜のためアルファベットを振り分けました。ただ、全ての刀剣使用例を抜き出したわけではなく、『小右記』に関してはあくまで大まかな範囲です。『今昔』の方は必要最低限のごく一部のみになります。またそれ以外の気になる記述にもアンダーラインを引きました。


■『今昔物語集』(※9)
巻第二十三 第十五
A・追者走り早まりて、否止(えとど)まり不敢(あへ)ずして我が前に出来たるを、過し立て(それをやり過ごすや)、太刀を抜て打ければ、頭を中より打破(うちわり)つれば、低(うつふ)しに倒れぬ。
B・彼れも太刀を持て切らんとしけれども、余り近くて衣だに不被切(きられ)で、鉾の様に持たる太刀なれば、被受(うけられ:相手の体をまともに受ける格好になって)て中より通にけるを、太刀の欛(つか)を返しければ、仰様に倒にけるを、太刀を引抜て切ければ、彼れが太刀抜たりける方の肱(かひな)を、肩より打落してけり。
巻第二十七 第三十八
C・八寸許(ばかり)の刀の凍(こおり)の様なるを抜て、女に指宛て、「しや吭(のむど)掻切てむ」と、

■『小右記』(※10)
天元五年(982年)二月十九日
D・今日、日華門外、左大臣雜色以刀突同家下人、命懸絲髪、緂(纔か)令出陣外云々、成犯之者逃去云々、今夜下人抜刀走登弘徽殿渡殿、

 

永観三年三月八日(985年)
E・一昨日夜、帯刀等、於陣中各抜大刀刃傷、

 

寬弘八年(1011年)九月二十九日
F・春宮有被刃傷者云々、(中略)欲捕之間、抜刀突有孝両所云々、既逃去、

 

長和二年(1013年)三月廿七日
G・件男忿怒、抜大刀打切子頸、(中略)又母女被打切肩、

 

長和二年(1013年)九月三日
H・此間相論、男以杓打童面、童引破男烏帽、男抜刀突童腹、已及死門、中将即捕獲男、

 

長和五年(1016年)五月廿五日
I・弟子法師抜刀突殺乱入者一人、

 

寛仁二年(1018年)正月廿二日
J・内舎人藤原季良宅在西隣、夜半許抜大刀者打開宅戸入來欲煞(殺)害季良、打落左方大指、切尻上二所、

 

寛仁三年(1019年)四月十二日
K・一昨夜主殿司女、於後涼殿北道、為盗人悉被剥衣裳者、抜刀宛頸不令放呼声云々、

 

治安三年(1023年)十月廿八日
L・一人者逃去、口口帯剣者於殿上口付縄之間、初逃脱者帰来、抜刀奪捕得帯剣者、瀧口内舍人藤原友良、執初男髪打臥欲縛之間、抜刀走寄、片手又執使男髪打臥、抜刀〔指〕宛腹、他瀧口等相共縛、

 

治安四年(1024年)六月
M・左近府生弘近、番長武友、昨日於陣囲棊(囲碁)之間口論、弘近抜大刀、欲打武友、令遁出左衞門陣、武友同抜大刀、陣官捕弘近武友、弘近籠左近陣戸屋、武友禁左衞門陣戸屋、今夜給検非違使、各令侍獄所、弘近左、武友右云々


 「刀」については「抜刀突=刀を抜きて突く」とセットになった若しくは関連した事例が複数あり(D、F、H、I)、その「抜刀突」が致命傷になったケースも見られます(H、I)。また、現代でも包丁やナイフなどで脅迫したり制圧することが行われるように突きつけ(指宛)られる事例もあり(C、K、L)、中にはのどを「掻切」ると脅したり、その刀の鋭さが前述『吾妻鏡』の打刀と同様に「凍(こおり)の様なる」と表現されるものもあります(C)。概ね短めの刀剣としての機能が確認できると言っていいでしょう。

 

 一方で「太(大)刀」は主に「打つ」「切る」ために抜かれ、身体部位が打ち破られる、打ち切られる、打ち落とされる、切れるなどということが起こる(A、B、G、J)のがわかります。帯刀の舎人(E)や衛府の府生や番長(M)などの武官は腰に佩いた太刀で刃傷沙汰やそこまで行かない程度の揉め事を起こすこともあったようです。

 

 またこの時代から既に太刀による刺突も見られますが、その場合能動的に突くのではなく「鉾の様に持たる太刀」で突っ込んでくる相手の体を受けるという少々特殊な形によって行われました(B)。打つ・切るを中心とする太刀と刺突を中心とする刀の機能の違いは中世軍記にも見られるので、『弓矢と刀剣』のいう機能の相違及び中世化という話は確かなものと考えられます。

 

 さて、肝心の太刀・刀を抜く際の表現についてですが、両者一括で「抜刀」ではなく、太刀(大刀)が抜かれる場合は「抜大刀」などとされます(A、E、G、J、M)。これは当然ながら、現代の語彙のように種類を問わず刀剣の鞘を払う意味で一律に「抜刀」という熟語を使うのではなく、漢文の文法通りにそれぞれ「刀を抜く」「太刀を抜く」としている為です。この基準で仮に「長刀」を腰に差していて使用するために抜く場合は、『草部石清申状』のように「抜長刀」となるでしょう。

 

 続いて、そのような「刀」の内で標準的なサイズより長いとされる物が平安鎌倉期の文献に実際あるかどうかを見て行きます。「刀」は短いものでは既に引用した『今昔物語集』(C)に「八寸許の刀の凍の様なるを抜て」とある一方、『平家物語』諸本中で古態を多く残すとされる『延慶本』では、


■『延慶本平家物語』第一本
・忠盛(平忠盛 清盛の父)是(闇討ちの件)を聞て、可然とて(家来の家貞を)被召具(めしぐされ)たり。一尺三寸ある黒鞘巻の刀を用意して、着座の始より乱舞の終まで、束帯の下に、しどけなき様に指て、刀の柄を四五寸計指出て、

 

と、それより五寸長い一尺三寸のものが見られるなど大きさも様々で、この二つだけを見ても組討ちに使う鎧通しなどの短刀サイズから後世の脇差程度までの幅があると言えます。そしてこちらの忠盛の鞘巻刀(もっともその正体は後から明らかになるように、さりげなく威嚇をすることで自らへの闇討ちを防ぎながらも物事を穏便に納めるための、木刀に銀箔を貼った「竹光」的な偽剣なのですが)は、

 

・其上、忠盛の朝臣大の刀をぬきて、火のほのぐらかりける所にて、鬢髪に引きあてて、拭はれけり。余所目には、氷などの様にぞ見ける。

 

というように「大の刀」などと太刀と紛らわしいように書かれるのです。「大刀」は上に引いた『小右記』にも見られるように「太刀」と同義の言葉としてしばしば文献に現れますが、ここに関しては「太刀」ではなくあくまで「刀」の中では「大きめ」となる一尺三寸の物を指しているわけです。

 

 また、これに関連して『延慶本』には他にも気になる記述がありました。


■『延慶本平家物語』第六末
・褐衣の直垂に黒糸威の大腹巻に、すちやう(首丁)頭巾して、一尺三寸の大刀指ほこらかして、三尺計なる大長刀もたせまかりけり。

 

 こちらは引用元の『延慶本平家物語 本文篇下』の翻刻では大刀に「たち」とルビが振られています。そのくせ長さは一尺三寸という太刀のサイズとしては考えにくい物となっています。しかしよく見ると本文には太刀の佩くや帯びるとは違い、「刀」と同じく「指」している上に、寸法が先程の「大の刀」と同じ一尺三寸とありました。とするとここは一尺三寸の太刀というよくわからないものではなく、忠盛のものに倣って「大(の)刀」と見るべき箇所で、多少無理にでもそのまま読むのであれば「おおかたな」とでもするのがいいでしょうか。

 

 そしてこのような標準よりも大きい、長いと形容される「刀」は『今昔物語集』にも見られます。

 

■『今昔物語集
巻第二十三 二十四
N・男大きなる刀の怖し気なるを逆手に取て、腹の方に差宛て、

 

巻第二十五 第十一
O・大きなる刀の鑭(きら)めきたるを現に児の腹に差宛て、

 

巻第二十六 第七
P・前に俎に大なる刀置たり。酢塩、酒塩など皆居(す)へたり。

 

巻第二十六 第十八
Q・薄き刀の長やかなるを以て、此の暑預(いも)を削つつ、


 N、Oのように逆手で持ったり腹に差し当てて人質に取るのに使うあたり、大きいとは言ってもやはり太刀クラスではなく前述C、K、Lと同じ用途に向く範囲に留まるようです。P、Qは調理器具として現れる「刀」です。Qに関して引用元の『新編日本古典文学全集  今昔物語集』注釈は、

 

■『新編日本古典文学全集37 今昔物語集(3)』巻第二十六 第十八 注釈六
・長い太刀をさすのではなく、重ねの薄い長めの短刀をさす。定寸より寸延びの腰刀、または庖丁刀であろう。

 

という長めの短刀、定寸より寸延びの腰刀というのを想定しています。ここに至ってついに草部石清が打たれたのと同類かもしれない「長やかなる」「刀」が現れてきたようです。平安~鎌倉時代の「刀」は短い刀剣と解することができるものですが、これらの事例から「刀」という短い刀剣のカテゴリー内での大小長短の程度があり、短いものから「大」「長」とされるものまで様々なものが存在したと考えることができます。

 

 草部石清もそのような「刀」としては大きい、長いとされるようなものを後世の我々からすると紛らわしい「長刀」と表現したのではないでしょうか。そしてそれは「なぎなた」と読むのではなく、『伊呂波字類抄』のいう「なががたな」であったのでしょう。

 

 しかも刀の主要な攻撃方法と目される突くではなく「火長猥抜長刀打伏石清」と抜いて「打」っているので、その場合既に出現していた(以下参照)打刀のうちの長いものとも考えられます。以下、『平安遺文』から打刀の初出とされる嘉承2年(1107年)の例です。1124年の『草部石清申状』を遡る事17年前の文書となります。

 

平安遺文フルテキストデータベース 【コンコーダンス表示】キーワード='(打刀)'

嘉承2年    直八十疋〉腹巻一領〈直廿疋〉打刀一腰〈直十疋〉綾二端 〈直六    既収    1679    山口光円氏本打聞集裏文書    4/1530

 

 また、「打伏」という点に注目するなら『小右記』などでは「打」つ機能を持つ刀剣は主に太刀であったわけですから、事情もわからないうちにいきなり何らかの刀剣で抜き打ちされた記憶しかない石清(しかも訴状の後半を見ると「石清齢是七十、既入老衰之色」という当時としては高齢の人物)は、後から思い返してその時の火長の太刀をとりあえず長い刀と表現した、そういった可能性もないとは言えません。この申状でしか知ることのできない事件のようなので、断定的な結論は難しいです。

 

 いずれにしろ、今まで見てきた情報を踏まえると平安時代の史料に単に「長刀」とあるだけではお馴染みの薙刀と確定させることは難しいのがわかりました。一方、前回取り上げた『本朝世記』の例では「奈木奈多」と真仮名による和訓があり、あの薙刀かそれに繋がるものであることは確実です。

 

 ただ、一応『春記』のケースだと「提長刀」とあるのが薙刀の方ではないかと判断したくなる材料の一つになります。なぜかというと『今昔物語集』における数少ない薙刀の用例として、

 

■『今昔物語集』巻第二十 第三十五
・袴の扶(くくり)を上て、怖し気なる法師原の長刀を提(ひさげ)たる、七八人の許(ばかり)の具して、

 

という箇所があり、薙刀は提げて持たれるものという平安時代の観念が伺えるからです。一方で刀剣は『今昔物語集』だと、既に抜き放って手に持っていた状態でも「彼れが太刀抜たりける」とありました(前掲B参照)。こちらを踏まえると『春記』の「提長刀」は、『草部石清申状』の「抜長刀」の事例よりは随分薙刀らしく感じられてきます。

 

 加えて夕刻の襲撃の際に胡籙と並び視認できるものであったということは、手持ちの刀よりは大きな目立つものではないかという推測も許されるでしょう。ただ、それでも長めの刀を目立つ形で提げて持つこともないわけではないでしょうし、結局後の時代の薙刀と同じものと確定する決定的な根拠には欠けるため、『春記』長暦四年四月の「長刀」は「不確実な例だが」とされているのではないかと思います。


 以上、薙刀の文献上の初出に関しては確実と見られるのが『本朝世記』であり不確実だがそう取れるものが『春記』にある、というようにひとまず参考元に書かれている通り解するのがよいと確かめられました。ほか、まだ未確認なのですが野中哲照氏により『奥州後三年記』成立の年代を院政期の始めに想定するという説も出てきているようです。『奥州後三年記』は戦況が膠着した際に薙刀による一騎打ちの余興が行われる場面があるなど、その使用が確認できる文献です。成立時のテキストにこういった薙刀の使用場面が存在しているとすると、この場合確実な方の初出が『本朝世記』より遡ることになるかもしれません。機会を見て氏の説も確認してみたいと思います。

 

 また、文献上の初出とは別に薙刀は、「なぎなた」「長刀」等の名称が定着する以前から上代からの長柄武器と同様の「鉾」などと呼ばれて使用されていた可能性もありそうです。そちらに関してはいずれ後の記事で補足的に紹介することにします。

 

引用元・参考文献
1:近藤好和・著 『弓矢と刀剣』(吉川弘文館
2:増補史料大成刊行会・編 『増補史料大成7 春記」(臨川書店
3:永原慶二・監修 『新版 全譯 吾妻鏡』(新人物往来社
4:正宗敦夫・編 『伊呂波字類抄』(風間書房
5:竹内理三・編 『平安遺文古文書編 第5巻』(東京堂
6:北原保雄 小川栄一・編 『延慶本平家物語 本文篇上・下』(勉誠社
7:国書刊行会・編 『平家物語 長門本 巻第1-20』(国書刊行会
8:高木市之助 小澤正夫 渥美かをる 金田一春彦・校注 『日本古典文学大系 平家物語』(岩波書店
9:馬淵和夫 国東文麿 稲垣泰一 ・校注 訳 『新編日本古典文学全集37・38  今昔物語集(3)(4)』(小学館
10:笹川種郎・編 矢野太郎・校訂 『史料大成 第1~3』(内外書籍)