東国剣記

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【薙刀】薙刀の文献上の初出は?(前)

 薙刀と言えば槍が普及する以前の武士の長柄武器の代表格です。その文献上の初出がいつかということについて今回確認してみたいと思います。まずは薙刀の初見についての情報及びその出典を見てみましょう。

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■世界大百科事典 第2版「薙刀」の解説
・《本朝世紀》久安2年(1146)の条に源経光が所持した武器を〈俗に之を奈木奈多と号す〉と記すのが初見とされる。


 続いて、その『本朝世記』がどのような史料であるかについてです。

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■世界大百科事典 第2版「本朝世紀」の解説
藤原通憲(信西)の編纂した平安時代の歴史書。1150年(久安6)鳥羽法皇の内命を受けて編纂に着手した。当初,六国史のあとをついで宇多天皇より堀河天皇にいたる15代220年余の通史を作る計画であったが,のち鳥羽,崇徳,近衛の3代を加えて18代とした。しかし完成したのは宇多天皇の1代のみで,他は未定稿のままに終わったとみられる。もとは数百巻にのぼる膨大なものであったと推定されるが,ほとんどが散逸し,今は935年(承平5)より1153年(仁平3)の間が断続的に四十数巻伝わるにすぎない。
■ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「本朝世紀」の解説
・歴史書。 20巻。藤原通憲著。平安時代末期の成立。鳥羽法皇の命を受け,六国史のあとを継承し,宇多天皇から近衛天皇までの事跡を編年体に記したもの。久安6 (1150) 年から着手,完成しないうちに平治の乱で途絶。宇多,醍醐両天皇の部分は『新国史』に依拠し,次の朱雀天皇からは太政官外記局の日記に拠り,ほかに貴族の日記を参照した。この書の一名を『史官記』または『外記 (げき) 日記』というのはこのためである。全体では 100巻をこえる分量であったらしいが,現在では朱雀天皇の承平5 (935) 年から近衛天皇の仁平3 (1153) 年までのうち,三十数年分が知られるにすぎない。平安時代後期の根本史料。


 『本朝世記』は平治の乱(1160年)勃発のキーマンの一人である信西入道が編纂を行っていたため、乱による彼の死と共に途絶してしまった歴史書とのことでした。元になった史料に太政官外記局や貴族の日記なども含み、概ね良質な情報源を持つ編纂史料のようです。

 

 では、その『本朝世記』本文の該当箇所を見てみましょう。問題の久安二年三月九日は大雨が降り雷がひどく、前斎院官子内親王の居宅が落雷で燃えてしまい、内親王の傍系の親族である源経光は雷に打たれて亡くなったという内容です。その経光の死の詳細が語られる所で「なぎなた」が登場します。

 

■『本朝世紀』久安二年三月(※1)
〇九日戊寅。大雨雷鳴霹靂。前斎院官子内親王 綾小路北東洞員東。居宅為雷火消失。内親王傍親源経光被震死(雷に打たれて死ぬ)畢。経光日頃風病(いわゆる風邪から中風まで様々なものを含む「風」の邪気によって起こると信じられた病)寝臥。子時(午前0時前後)雷声殷々。経光驚執兵仗(儀仗に対する実用の武器)。俗号之奈木奈多。爰(ここに)如流星物穿屋上飛来。経光忽以頓臥。其腹二尺計割畢。于時経光妻在側。被衣臥地。日来依読誦観音経。適免其殃(わざわい)畢云々。霊験掲焉(けちえん 著しい)者也。


 日頃から「風病」を患い臥せっていた源経光は、午前0時前後に激しく鳴り響いた雷鳴に驚き「兵仗」を手にしたものの、流星のように屋根の上より降ってきた雷に打たれ死んでしまったという記事です。その際彼の腹は二尺ばかり割けていたとある一方、妻は日頃より読経していた観音経のおかげでその災いを免れたという記述もあります。ここで雷鳴に驚いて手に取った「兵仗」が「俗号之”奈木奈多”」と真名書きによる読みが記されているため、あの「なぎなた」であるとわかるわけです。

 

 ちなみに、雷に対して武器を振りかざして対抗しようとするも案の定撃たれて死んでしまうというのは『平治物語』にも見られます。近くにいた者はありがたいお経の功徳で無事である点も同じであるなど共通要素も多いので引いておきます。

 

学習院平治物語』下巻(※2)
・俄に風あらく吹下て、空かきくもり電(いなびかり)しきりにして、雷、雲をひびかす。難波、色をうしなひて、傍なる者に申けるは、「夢見悪しかりつるは此事也。悪源太がきられし時に、はては雷に成て蹴殺さんといひし面魂が、常に俤(おもかげ)に立ておそろしかりし心にや、夜も夢に見えつる。(中略)命のあらんかぎりは、雷にてもあらばあれ、一切りは切らんずるぞ。跡の証人に立給へ」とて、太刀をぬく。案のごとく、難波が上に黒雲うずまき降て、雷鳴りさがりけり。清盛もあやうく見え給ひけれども、弘法大師の五筆の理趣経を錦の袋に入て、頸にかけられたりけるを、うちふりうちふりし給ひければ、雷、鳴あがりて、清盛はたすかり給けり。難波はけころされてありけるを、雲散じて後、をのをのよりて見ければ、五体、千々にきれて、目もあてられぬ形勢なり。


 平治の乱後に捕らえられた悪源太義平を清盛の命により斬った難波三郎は、雷と化して蹴り殺してやるという悪源太の呪詛と恐ろしげな顔が頭から離れず悪夢を見ることが続いており、突然湧き起こった雷雲に対して錯乱しながら太刀を抜くが案の定雷に打たれて死んでしまうという内容です。近くにいた清盛も危なかったはずですが、首にかけていた「弘法大師の五筆の理趣経」のおかげで助かったことが記されています。平安鎌倉の武家周りでこのような事例は意外にあったのでしょうか。ただ、経光の場合は事後の伝聞情報ではありますが、屋外に出た記述がなく雷も「爰如流星物穿屋上飛来」とあるため武器を手にしたことは無関係に屋内で打たれた可能性もあります。以上、余談です。


 しかしその『本朝世記』の記事で薙刀の初出が確定かというと、そう単純ではありませんでした。薙刀の初出に関しては以下のような情報もあるのです。


■近藤好和『弓矢と刀剣』(※3)
・一方、中世を代表する長柄の武器である長刀は、不確実な例だが、十一世紀には見えている(『春記』長暦四年<一〇四〇>四月十一日条)。

 

 「不確実な例だが」と条件付きですが、こちらは『本朝世記』編纂が最終的に途絶した年代どころか経光の件のあった久安二年(1146年)から見ても100年以上さかのぼって前九年合戦の開始よりも前の事例になり、見逃すことはできません。

 

 ただ、ここから先が当初の予定より大幅にボリュームアップしてしまったので一旦区切ることとしました。後編ではその『春記』の薙刀の件と、そこから派生して平安時代のとある文書に見られる「長刀」の文言は果たしてあの薙刀のことを指すのかということと、それに関連して主に「打」つことに使われる太刀「突」くなどに使われる刀という平安時代の太刀・刀の機能の違いについても考えます。

 

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引用元・参考文献
1:経済雑誌社・編 『国史大系 第8巻』(経済雑誌社)
2:栃木孝惟 日下力 益田宗 久保田淳・校注 『保元物語 平治物語 承久記 新日本古典文学大系43』(岩波書店
3:近藤好和・著 『弓矢と刀剣』(吉川弘文館