東国剣記

東国の剣豪、武芸、中世軍記、そのほか日本の合戦諸々について扱うブログです。

【武芸用語で読む文献史料①】新当流「薙の太刀」の戦場使用を記した毛利家臣 及び鎧武者に対する足への攻撃について

 戦国時代後期毛利家に仕えた武士・玉木土佐守吉保の自叙伝である『身自鏡』という覚書があります。成立は元和3(1617)年でこの種の覚書の中では比較的早く、また以下のように内容の点でも評価の高い文献史料です。

 

みのかがみ【身自鏡】
毛利家の家臣玉木土佐守吉保(1552‐1633)の自叙伝。1617年(元和3)に作られた。吉保の先祖および自身の誕生から老年に至る事跡を年代順に叙述。年月日付には若干の記憶違いがみられるが,戦国時代を生きぬいた地方武士の生活が生き生きと記されている好史料。とくに,著者の体験に基づく,当時の寺院教育の教授法,教科書などが詳しく記されており,教育史料としても貴重である。【勝俣 鎮夫】

世界大百科事典 第2版「身自鏡」の解説

kotobank.jp

 


 この『身自鏡』に新当流の「薙(ち)の太刀」の使用を記したと考えられる箇所を発見しましたので、今回記事を書いてみました。それが見られるのは大友氏に身を寄せていた大内氏の生き残りである輝弘が永禄12(1569)年周防に一万の軍勢を引き連れ上陸し、毛利方と合戦となった時の記述です。なお、こちら以前に合戦に出たことが記されていないので吉保にとってはこれが初陣であるようです。


■『身自鏡』(※1)
・右の蜂起同時に、大友謀事にて、大内の末類、大内太郎左衛門輝広(弘)と云者を取立、周防の国相尾(秋穂)小郡と云津へ、人数一万計にて差渡す。
(中略)
予、先(真)さきかけて行ける処に、とのみ(富海)の浜夷の前にて、佐向右近と云者に名乗相、追つ返つ合戦す。右近は大の男にて力も強し。身は若年なれば、手柄の非可及(およぶべくもあらず)、併(しかしながら)、運は在天に(天に在り)と思ひ、太刀をひしひしと打合す。右近が刀は長して精在り。以て開てちやうと打処を、矻(きつ)と背けて、七重の薙の太刀の位を以て、中を払ければ、右近が両膝直(つ)んと切て倒す。即首を取て、頸を打ち落んとしける処に、味方跡より襲い来て、我を取て刎除(はねのけ)、数多の勢に頸をば奪たり。是即若輩の故也と、無曲(きょくなく)てぞ立たりける。其後輝広は茶臼山にて果て給ふ也。


 体も力も上回る敵に対しまだ頼りない若輩の身であった吉保が運を天に任せ打ち合い、ついに「七重の薙の太刀の位」によって両膝を斬って倒し敵の頸を取ろうとしたものの、後から来た大勢の味方に横取りされてしまうという晴れがましくもほろ苦い回想です。

 

 こちらで使われた「七重の薙の太刀の位」、これがどうして新当流の技法と言えるのかということを、毛利家中で新当流の技が見られる理由、七重の薙の太刀とは何か、そして薙の太刀は具体的にどういった技術なのか、なぜ一般的な意味合いではなく剣術の技法と解釈するのか、ということを順を追って説明していきます。

 

 

 まずこの時期の毛利家中において新当流の技が見られる理由です。新当流が生まれた関東と中国地方では距離的にかなり離れているわけですから、その点に関して疑問を持たれる方もいるかもしれません。これについて江戸時代の長州藩編纂史料集である『萩藩閥閲録』に掲載される以下の兵法起請文を見てみましょう。


■『萩藩閥閲録』巻110 石川彌左衛門(※2)
・今度其方依上国、新当流兵法無残相伝候、親子之外不可有他見候、於偽者
日本国中大小神祇、別而八幡大菩薩・摩利支尊天王可蒙御罰者也、仍状如件
永禄十一 三月廿七日 大江(大江は毛利の本姓)輝元 御判
石川肥後守殿

・今度新当流兵法御相伝誠本望此事候、親子之外不可外見候、於偽者
日本国中大小神祇、別而者八幡大菩薩・摩利支尊天・天満大自在天神可蒙御罰者也、仍起請文如件
永禄十一 卯月十三日 元淸 御判
石川肥後守殿


 これらは永禄11(1568)年において祖父元就との二頭体制ながら毛利家の若き当主の立場にあった輝元や、元就の子で後に穂田家を継ぐ元清が、石川肥後守という兵法者から新当流を相伝された際に提出した起請文です。こちらを見る限り、大内輝弘を迎え撃った合戦で「七重の薙の太刀」が使用されたと書かれる永禄12年と極めて近い時期に毛利家中において新当流の稽古が行われていたことは確実であり、それを修めた当主の輝元・一門の元清といった人々の立場を考えれば当時の家中における隆盛ぶりにも想像がつきます。従って吉保もその技法を知っていたか、あるいはそれを稽古したこともあったとしても不思議ではないでしょう。

 

 余談ですが、天文22(1553)年生まれの毛利輝元は新当流兵法が「残り無く」相伝されたという上記永禄11(1568)年にはまだ15歳(数え年では16歳)という若さであり、かなり即成の武芸伝授が行われていたことがわかります。

 

 次に「七重の薙の太刀」とは何かを新当流の伝書から見て行きましょう。最初に国会図書館蔵の『新当流伝書(写)』を参照します。

 

■『国会図書館蔵 新当流伝書(写)』
・新当流太刀七重ノ向上
第一引 第二車  第五

dl.ndl.go.jp

 このように「”太刀””七重”ノ向上」の文言と、断片ではありますがその内訳として「第一引 第二車  第五薙」が確認できました。

 

 また、平戸藩主・松浦静山がその著作である『甲子夜話三篇』中に載せた先祖・松浦肥前守隆信宛ての伝書にも「新当流”七重””太刀”」が見られます。この絵伝書については別々の断簡を「七」の数に合わせるため接いだものという静山による注意書きがあり、実際前半部分は第一・第二と数えていたものが5番目以降は∴の後に書かれるものとなるので不自然さは明白ですが、東洋文庫版『甲子夜話三篇』の画像写真を参考にする限り「新当流七重太刀」の題と第一・第二と数えられた前半部分とはひとつながりになっており、こちらの方を七重太刀の内容を探る参考にできそうです。


■『甲子夜話』三篇十三(※3)
新当流七重太刀(此目録年号なし。今何れの時なるを知らず。されども始に七重太刀と有れば、前の目録に六ヶ重と有るに次で、姑くこゝに出だす)
「第一引 第二車 第三払 第四違 ∴竪構 ∴楯裏 ∴虎乱」
此処合縫(ツギメ)離る。されども以上の目七重なれば、ここに次ぐ耳(のみ)。


 本来の七重太刀と考えられる4番目までは「第一引 第二車 第三払 第四違」とあります。これに国会図書館蔵『新当流伝書(写)』の「第五薙」を加えると「七重」のうちの五番目まで明らかになりました。これら『甲子夜話三篇』掲載伝書の年号を見ると、松浦肥前守隆信に新当流の相伝が行われたのが確実にわかる年は天文20(1551)年、天文21(1552)年、永禄2(1559)年ですが、永禄2年には塚原与介幹勝という人物より新当流剣術の最高位の技である「一太刀」相伝されているので、段階としてはそれより下に位置する七重太刀が伝授されたのは恐らく永禄2年の「一太刀」相伝よりも後になるということはないでしょう。

 

 いずれにしろ、玉木吉保が「七重の薙の太刀の位」を用いたというのとそれほど遠くないと想定される時期に「七重太刀」が新当流の伝書に現れることが確認できたわけです。このほかにも以下の下川潮・著『剣道の発達』に「卜伝流」のものとして紹介される目録に七重として太刀名が並んでいます。

 

■『剣道の発達』(※4)
・長威斎の伝は未だこれを見ざれど卜伝流の伝は其目録並びに伝書の写しを得たれば之を詳かにすることを得れども茲(ここ)には其術名を挙ぐるに止めんとす。即ち
七重(一、引  一、車  一、違  一、薙  一、乱  一、手縛)

剣道の発達 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

 こちらは第三にくるはずの「払」が抜けているようですが、順番は上記二つの伝書と共通です。抜けている「払」を加えると七重の名の通り、「第一引 第二車 第三払 第四違 第五薙 第六乱 第七手縛」となります。

 

 そして『日本武道全集第二巻』掲載伝書を見てみますと、同じ並びの「引 車 払 違 薙 乱 縛」を持つ「七条太刀」「中古念流七情太刀」が確認されます。


■『天真正伝新当流兵法伝脈』(※5)
・七条太刀 七情とも唱ふ 一々口伝 大伝
引 車(斜) 払 違 薙 乱 縛 


■『新当流松岡派兵法仮名書』(※5)
〇中古念流七情太刀
〇引太刀 〇車之太刀 〇払太刀 〇違之太刀 〇薙之太刀 〇乱之太刀 〇縛之太刀


 こちらに関しては重と条で意味が変わったということではなく、既に引用した『甲子夜話三篇』中の松浦静山の記述に「前の目録に六ヶ重と有るに次て」と重を〇ヶ条のように使う用例が見られるように「重」は元々「条」に通じる使われ方をされていたので、条やそれと同音の情に表記が固定化されたと見てよさそうです。

 

 細かくなるかもしれませんが、「七重の薙の太刀の位を以て、中を払ければ」の「位」についても神道流・新当流系伝書を参考にして考えてみましょう。神道流系の伝書を見ていくと、大森宣昌・著『武術伝書の研究』(※6)で解説されている『神道流剣道奥義』の件のように「位」を「構え」と解せそうな使い方も実際散見されます。しかし、例えば江戸時代に鹿島で修業し新当流の唯授一人を得た大月関平の『兵法自観照』の以下の箇所を見ると、


■『兵法自観照』高上奥位十箇條太刀(※7)
見越三術之事 口伝
・夫(そ)レ見越ノ位者(は)、難言、語を下ば必不中、(中略)、爰以て、見越の位を覚知、専要也。


「見越三術」の「術」と「見越ノ位」の「位」は同義のように使われています。また以下の二戸市に伝来した卜伝の流れを汲む『新当流薙刀高上目録唯授一人』という伝書では、最高位の技であろう「一之長刀」を含むすべてが○○之位で表されています。


■『新当流薙刀高上目録唯授一人』(※8)
・一、雲勢之位 口伝  一、雲狂之位 口伝  一、八天之位 口伝 (中略) 一、天地切詰之位 口伝  一、一之長刀之位 口伝
右何諸具足勝事口伝可秘


 薙刀唯授一人の者に与えられた目録に構えの名称のみが並ぶというのは考え難く、これも術・技法・型などで「位」を使っている例と考えた方が自然ではないでしょうか。よって『身自鏡』の「七重の薙の太刀の位を以て」は「七重の薙の太刀の技で」程度の意味に読んでいいのではないかと思います。

 

 ではそろそろ「薙」の太刀の具体的な遣い方を確認してみましょう。以下は江戸時代の松岡派のものという条件にはなりますが、『新当流松岡派兵法仮名書』の「中古念流七情太刀」から「薙之太刀」です。


■『新当流松岡派兵法仮名書』(※5)
○中古念流七情太刀
○薙之太刀。てき隠眼の構へ、処に左かまへば八重垣にて切合ながら、てきの脚を払い、とう方より取り、冠り討つ。又とうほうへかぶり詰め勝つ也。亦切合ながら傍へ折敷て、巻切りの伝あり。


 このように『身自鏡』の「右近が両膝直んと切て倒す」を思わせる「てきの脚を払い」という文言が確認できました。「亦切合ながら傍へ折敷て、巻切りの伝あり」は別伝で、こちらには足を払う動きがないようです。

 

 また自分自身で撮影した2010年以降の鹿島神宮奉納演武の動画を見直す限り現在行われる鹿島新當流兵法の「薙の太刀」は、遣い手(仕太刀)が相手(打太刀)の攻撃に合わせてその胴~大腿付近に片手斬りを行いつつ片膝を着き、低い体勢のまま立った相手が打ち下ろしてくる攻撃に対し片手遣いで繰り返し打ち合う場面のあるという、極めて独特の風格を持つ組太刀です。

 

 最初の片手斬りが玉木吉保の書いた「七重の薙の太刀の位を以て、中を払ければ、右近が両膝直んと切て倒す」に相当するようにも思えますし、あるいは『身自鏡』中の「太刀をひしひしと打合す」から「右近が両膝直(つ)んと切て倒す」に至る流れと『新当流松岡派兵法仮名書』の「切合ながら、てきの脚を払い」をオーバーラップさせて考えると、次の片膝を着いた低い姿勢の段階において打ち合いつつ目の前にある相手の足を片手斬りで払ったとしても別段不自然ではなさそうです。いずれにしても新当流剣術の「薙之太刀」には『身自鏡』の「七重の薙の太刀の位を以て、右近が両膝直んと切て倒す」を思わせる要素が含まれておりました。

 

 

 最後に「七重の薙の太刀の位を以て、」を特殊な武芸用語ではなく一般的な意味合いで解釈できないかと考えてみます。その場合「漢数字+重」には一重二重というような使い方がありますからは七重に渡って薙ぐ太刀とでもするべきでしょうか。しかしそうすると「右近が刀は長して精在り。以て開てちやうと打処を、矻(きつ)と背けて、」という一進一退の攻防の流れの後に突然吉保側が七度薙ぐ太刀を繰り出すということになり、唐突さは拭えません。また「○○の位」という辺りも一般的な動作ではなく特殊な技芸の動きについての呼称を示している方がやはり自然です。このような理由から一般的な意味合いで解釈しようとするよりも、今まで説明してきた新当流の七重太刀の中の薙の太刀であったとした方が無理がないと思われます。

 

 以上、上記の根拠から玉木吉保が戦場で使ったと記した「七重の薙の太刀の位」が新当流の七重・七条・七情などと書かれる技法群のうちの「薙の太刀」であると考えられ、その「薙の太刀」は新当流の伝書においても『身自鏡』の「右近が両膝直んと切て倒す」同様に足を払う攻撃が記されていることを説明できたと思います。


 技自体の説明が一通り終わったところで、今度は玉木吉保が薙の太刀で攻撃した膝という部位についても考えてみましょう。この膝を含む足や腕というのは、江戸前期に足軽のテキストとして作られたとされる『雑兵物語』においては、


■『雑兵物語』(※9)
鉄砲足軽小頭 朝日出右衛門
・胴乱一ぱいぶちけたらば、かるかを引ん抜て、鉄砲を腰にひつぱさんで、刀を抜て、敵の手足をねらつて切めされい。

足軽小頭 大川深右衛門
・其後は、刀でも脇差でも、勝手次第にひん抜て、手かあしをねらつて切(きら)れよ。


など、刀を手にした際には狙うよう繰り返し説かれる甲冑武者の弱点とされる部位の一つです。若き日の織田信長の事績を伝える『信長公記 巻首』においても、今川義元斎藤道三の最期に関連して足への攻撃が確認されます。


■『信長公記 巻首』(※10)
今川義元討死の事」
・服部小平太、義元にかかりあひ、膝の口きられ、倒れ伏す。

「山城道三討死の事」
・長井忠左衛門、道三に渡しあひ、打太刀を推し上げ、むすと懐き付き、山城(斎藤山城道三)を生捕に仕らんと云ふ所へ、あら武者の小真木源太走り来たり、山城がすねを薙ぎ臥せ、頸をとる。

「信長太良より御帰陣の事」
・森三左衛門(可成)、千石又一に渡し合ひ、馬上にて切り合ひ、三左衛門すねの口きられ、引退く。


 最初のものは桶狭間の戦いにおいて今川義元に対し一番に攻撃を仕掛けた織田方の服部小平太が、膝の口を斬られて撃退されたという記述。二番目は斎藤道三を生け捕りにしようとしていて長井忠左衛門が組み付いていたところに別の小真木源太という武士がやってきて道三の膝を薙ぎ、頸を取ってしまう記述。三番目はその後の戦いで森三左衛門と千石又一の馬上での斬り合いで、森三左衛門が脛を斬られて退却したという記述です。

 

 膝や脛等を斬られる自体は多くの場合直ちに致命傷になることは少なそうですが、服部小平太は膝口を斬られたことで倒れ伏し総大将の義元を討ち取るという一世一代の武功を逃すことになってしまい、道三は脛を薙がれた後ただちに首を取られ、森三左衛門は退却するしかなくなるというように、戦闘の継続を難しくする侮れない攻撃であることがわかります。三番目の例で受傷した森三左衛門が速やかに退くことができたのは馬上の戦闘だったからであり、徒歩の場合には思うように退却できないのは確実です。これらの事情を見るにやはり玉木吉保も鎧武者の弱点ということで「七重の薙の太刀の位」を用いて膝を狙った、もしくは膝を薙いだ攻撃を「七重の薙の太刀の位」と表現したということでしょう。


 最後に、当事者が記した覚書は自己宣伝的な性質を持つことがあり、武功などは時に過大に、あるいは都合よく申告されることもあるという問題について考えてみます。実際のところ『身自鏡』のこの場面も、初陣の若輩者が「大の男にて力も強」く「刀は長して」という体格も太刀の長さでも勝る相手に対して、技を使うことで倒す事ができたという点ではいくらか出来過ぎていると考えられなくもありません。

 

 しかし一方で以下のように逆に自らは「二間渡り(約3.6メートル)の槍を使いながら、それよりも90センチ程度は短いことになる「九尺計(約2.7メートル程度)」の槍を持った相手が「剛敵」であったために勝負がつかなかったというエピソードもまた『身自鏡』では語られております。


■『身自鏡』
・二間渡りの鑓を持て、一番に突て懸る。誰と不知、黒頭の甲に黒き鎧を着て、九尺計の鑓持たる武者と懸合せ、互いに甲を片向(かたむけ)、打つ敲つ戦ける。一寸手増しと云事有れば、我が鑓は長く、渠(かれ)が鑓は短ければ、突きもくつて追立てける、去(され)共剛敵なれば、左右無く(優劣をつけられず)、勝負(勝ちも負けも)もせざりけり。


 実は有名な強者であったというのが後から判明するならともかく、このように「誰とも知らず」とされる最後まで正体のわからない相手に対し、長さの上では明確に有利な得物で臨みながら勝つことができなかったという、あまり名誉とも言えない戦いぶりもわざわざ書き残す『身自鏡』は、自分の武功については左程強く誇示する目的の覚書ではないのではないかと思います。

 

 後述の『医文車輪書』の結末においても、医師としての自らを擬したと思われる「白翁殿」が一度は病を撃退したものの次第に寄る年波には勝てず、ついには尊い和尚にすがって病の大将を滅ぼすにはどうしたらよいかなどと聞いて終わらせるように、自分自身や身に着けたものについてそれほど誇大には記さない人物像も伺えます。従って「七重の薙の太刀の位」の件も、極端に話を膨らませたということもなく割合素直に書かれたものと取ってもいいのではないでしょうか。

 

 こちらの槍の件に関して余談になりますが、槍合わせの内容を見ていくと前半では互いに「打(うち)つ敲(たたき)つ」という叩き槍の表現だったのが、後半になると「突きもく(まく)」る攻撃に徹しており、全体を通して見ると叩き一辺倒とも突き一辺倒とも言えない戦場の槍の使い方にも興味を惹かれる場面でもあります。リーチに勝り有利である状況をその分より多くの攻撃を繰り出せるということでしょうか、「一寸手増しと云事」と表現するのも面白いところです。


 ということで、今回は毛利家に仕えた玉木土佐守吉保の『身自鏡』より新当流「七重の薙の太刀」の合戦での使用を記すと考えられる箇所について紹介しました。実の所こういった実際の合戦についての記述は『身自鏡』の一部に過ぎないものでして、武士であり、医師としても活動し、幼少から寺で教育を受けた教養人でもあった玉木吉保の知識の深さや興味の広さのおかげで、年ごとに熱中したものに関連して歌道・蹴鞠歌・料理のレシピなどが詳しく語られたり、心気佐(しんきのすけ)労斎殿という病の軍の総大将が蜂起し藪偽介(いつわりのすけ)白翁殿(別名:藪医介白翁殿)の城に攻め入って合戦になるという体裁で書かれた漢方医療と病との攻防戦である『医文車輪書』が含まれるなど、『身自鏡』の内容は雑多と言えるほど多岐に渡ります。

 

 特に『医文車輪書』に関しては、病や薬などを擬人化した戯作物語に仕立てることで医薬知識に乏しい者に対してもわかりやすく伝えようとする読み手を意識した姿勢があるだけでなく、病の軍と戦う城主であり『医文車輪書』の作者としての自らの名をよりによって藪医者を思わせる藪偽介白翁殿とし、一度は大合戦に勝利し病を撃退するものの年を経て体が弱り打つ手がなくなった白翁殿がついには心気佐殿の滅ぼし方を尊い和尚に聞くしかなくなってしまう結末には、皮肉と諧謔を解する吉保の人柄もしのばれます。中世末期・近世初期のこれら分野に興味を持つ方は、一度目を通してみてはいかがでしょうか。

 

引用元・参考文献
1:米原正義・校注 『戦国史料叢書7 中国史料集』(人物往来社
2:山口県文書館・編 『萩藩閥閲録 第三巻』(山口県文書館)
3:松浦静山・著  中村幸彦 中野三敏・校訂 『甲子夜話三篇1』(平凡社
4:下川潮・著 『剣道の発達』(大日本武徳会
5:今村嘉雄・編 『日本武道全集 第二巻』(人物往来社
6:大森宣昌・著 『武術伝書の研究』(地人館)
7:戸部 新十郎・著 『兵法秘伝考』(新人物往来社
8:二戸市教育委員会市史編さん室・編 『福岡の武芸』(二戸市教育委員会
9:浅野長武・監修 樋口秀雄・校注 『図巻雑兵物語』(人物往来社
10:桑田忠親・校注 『戦国史料叢書2 信長公記』(人物往来社

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