東国剣記

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【塚原卜伝 補①】神道流「奥秘の一刀」で多人数を斬り殺した尾張の武芸者 及び 改良されたかもしれない「一つの太刀」

 旧ブログでも反応の多かった神道流系統の奥義「一つの太刀」についての小記事です。そちらでは以下のように「一つの太刀」が松本備前守塚原卜伝らを開発者とするものだけでなく、神道流の開祖である飯篠長威斎を起源とする説が江戸時代前期の地誌『古今類聚常陸国誌』にあることも紹介してありました。


■『古今類聚常陸国誌』(※1)
「飯篠長意」
・長意、下総国香取郡人也、夙(つとに:早くから)好撃剣、未得妙、祈於香取明神、夜夢明神来授一巻書、曰、汝後為天下剣客師、矣、長意夢裡受読
・長意晩得奥術、秘而不傳名為一刀、有一弟子能窮其術、長意奇而授之、授受三世、得塚原卜傳、


 飯篠長意(長威斎)は会得した奥義の術を誰にも伝えずその名を「一刀」として秘蔵しておりましたが、これが流儀の術を極めたとある一弟子に伝授され三世を経て更に塚原卜伝に伝わった、という情報です。

 


 今回問題になるのはここに現れる「一刀」という表記です。こちらの場合は塚原卜伝に伝わったという文脈からいわゆる「一つの太刀」「一之太刀」であることはわかると思いますが、この表記を踏まえると以下の逸話における神道流兵法「奥秘の一刀」もまた、神道流・新当流の奥義の「一つの太刀」のことである可能性が出てきます。しかもこの逸話によるとその「奥秘の一刀」は更に改良までされるのです。

 

 これから尾張藩の武芸者関連の情報を記した『尾陽武芸師家旧話』(※2)からその「奥秘の一刀」の件について見てみようと思いますが、こちらとはだいたい同内容の記事が『昔咄』(※3)にもあります。それの前段によると、


■『昔咄』
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953323/78
・瑞龍院様御若さかりの頃までは、辻切等もはやり、打捨の者抔多かりしが、活発大胆なる若年の者は、任侠強豪なる事も、少しは免すべし、勇猛なる者は、言行共に麁厲なる者なるが、左様の者ならでは、武用にも立難しと御意ありて、


と二代藩主徳川光友の若い時代にあったこととされています。光友は元和偃武から10年しか経っていない寛永2(1625)年生まれですから、その若き日ともなればまだまだ戦乱の時代の荒々しい気風が残っており、若者は元気なくらいがいいからと多少の不良行為は許容し、勇猛な者は乱暴な言動や振る舞いも荒っぽいものであり、そういった者であるからこそ有事の役に立つのだという方針で藩を治めていたとのことです。以下の神道流武芸者・沖津勘平治もまた、そういった時代の人物でした。


■『尾陽武芸師家旧話』
・沖津勘平治(神道流の達者也)と云者、(中略)。
 闇夜の事也。勘平治は至極小男にて有りし故見侮り、右の若党・中間共さんざんに悪口す。勘平治怒りて、「己等撫切にせん」と云。其時七八人の者共、是はおかしいぞ、それひやせといふ儘抜連て切て懸る。勘平治心得たりと抜合せ、さんざんに戦ひ七八人を皆切倒しぬ。小男にてはあり、別而其節の働、人々称美せり。


 神道流の達人であるという沖津勘平治(『昔咄』では沖津勘平次)は、小男であるが故に夜道で行き会った他家の奉公人の集団に侮られ言葉の応酬の末に斬り合いとなりますが、たった一人でその奉公人たち七、八人を斬り殺してしまいます。しかし小男が大勢を相手に一方的に勝利したという一件は、まだ荒々しい気風の残る時代の人々から称賛を浴びることとなりました。そしてこちらの事件で奉公人たちを斬り殺すのに使った技というのが以下のように神道流兵法の「奥秘の一刀」です。


・右勘平治神道流兵法におゐては、就中(なかんずく)其奥秘の一刀を修し得て、此時も一本にてたやすく切殺せし也。其太刀を打人伝へて猶工夫潤飾して、神秘就竜刀と改め門弟へ伝へぬ。大概わざをなすものには、一座の伝授にて必勝を得る事にして、しかも壱人よりは多人数に長じて勝利全き事也とぞ。


 勘平治は神道流兵法における「奥秘の一刀」を習得していて、闇夜の事件においてもこの技一つで七・八名の奉公人たちをたやすく切り殺していったということです。その次の「其太刀を打人伝へて猶工夫潤飾して、神秘就竜刀と改め門弟へ伝へぬ。」は大変興味深い反面、いきなり現れる「其太刀を打人」が勘平治とは違う別の人のようにも読めて意味不明瞭です。『昔咄』の方を見ると、


■『昔咄』
・其太刀或人伝へて、工夫潤飾して、神秘龍電刀と改め称して伝へぬ。


とやはり勘平治(次)とは違う「或人」の話であるようであり、しかも改良された技名も「神秘龍電刀」と『尾陽武芸師家旧話』とは異なっています。いずれにしろ「奥秘の一刀」は「其太刀を打人」「或人」によって一層の工夫と潤色がなされ「神秘就竜刀」あるいは「神秘龍電刀」と名を改められ、門弟たちに伝えられたということです。しかも、その技を使う者は闇夜の事件の勘平治と同じように多人数を相手にしても勝つことができる、いやむしろ「壱人よりは多人数に長じて」というように一対一よりも多人数相手に向く特色を持つ技とのことでした。


 こちらに現れる神道流兵法の「奥秘の一刀」が『古今類聚常陸国誌』の飯篠長意の「一刀」と同じように神道流の「一つの太刀」であったとすると、それを習得している者が登場するだけでなく、更にこの技が工夫を加えられ改良されるという非常に珍しい逸話と言えます。また、こちらに現れる「奥秘の一刀」は改良前の段階でも七、八人を相手にしても勝ちを収める技として表れていますので、元々「一つの太刀」には現実的な限度はあるにしろそのような面があったのかもしれません。

 


 続く「一座の伝授にて必勝を得る事にして」の「一座」は「首座」「首席」の意味もありますし、あるいは仏教における「一座の行」などのように「一度の」という意味もあります。後者だとすると、たった一回の伝授で必ず勝ちを得られ、しかも一対一より多人数相手に向く太刀を使えるようになることを謳った、あるいはそのような評判があったということになります。「神秘就竜(龍電)刀」という改良技の名称も、個人的には「一つの太刀」のシンプルさに比べ修飾が多くなったように思えますし、自ら「神秘」と謳ってしまうのは中々世俗的な宣伝の上手さも感じます。

 


 ともかく、闇夜での多人数を相手にしての刃傷沙汰がまだ荒々しかった人々の評判をとった沖津勘平治でしたが、その後の生き方はどうなるでしょうか。


・扨(さて)勘平治此働より甚だ高慢し旁にて、口論などしける故、御聴に達しけれ共、渠(かれ)が働を感ぜられ、「下部とは云ながら、あの小男にて七八人を手もなく切りし甲斐々々しさにては、用に立べき者ぞ、大躰の事はまづ見ゆるすべし」と有難き御意にて、内々親しき者共に異味抔をいはせられしが、若気の血気故喧嘩好をなし、後は法外者に成し故、止事を得られず御改易有し。


 事件が評判になって以降、甚だしく高慢な態度を取るようになり口論などもする勘平治の素行の悪さは藩主の耳にも届くようになっていたようですが、身分は低いけれども小男ながら七、八人を易々と斬り倒すほどなのだから役には立つ者ではあるということで、その恐るべき腕前に免じて見逃されておりました。しかし結局は若さ故の血気盛んさで喧嘩を好み身を持ち崩し、荒々しい気風が残る時代にあってさえ、ついには改易されてしまうという結末を迎えます。

 神道流兵法の「奥秘の一刀」の改良型であり、多人数を相手に必ず勝ちを得る奥義だったという「神秘就竜(龍電)刀」のその後についても語られることはありません。こちらもまた具体的な姿が残らないまま消えてしまったのでしょうか。


 以上、神道流の「奥秘の一刀」を会得しており一人で大勢に勝つほどの剣の使い手であったものの、円満ではない人格が原因で結局改易されてしまったという自業自得とはいえ少々残念な運命を辿ることになる武芸者と、改良された「奥秘の一刀」である「神秘就竜(龍電)刀」の話でした。

 


 「一つの太刀」関連の話題は旧ブログに載せた以外のこともいくらかストックがあり、最初はそれらを【一つの太刀・拾遺】として一度にまとめて紹介するつもりでしたが、いざ書き始めてみると今回の記事のように意外と分量を取ることがわかりましたので、今後それらの話題ごとに個別記事を作って紹介していきたいと思います。


引用元・参考文献
1:小宅生順・著 野口勝一・編 『古今類聚常陸国誌』(崙書房)
2:今村嘉雄・編 『日本武道全集第七巻』(人物往来社
3:近松彦之進・編 『昔咄 : 抄録 慶勝公履歴附録』(国史研究会)

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