【日本の投げ槍1】江戸時代軍学における犬槍の観念・及び投げ槍批判について
精選版 日本国語大辞典「犬槍」の解説
kotobank.jpいぬ‐やり【犬槍】
[名] (「犬」は卑しめていう語) 敵が不意に出て、槍で突くこと。また、柵またはみぞを越えようとする相手を突くこと、槍を投げつけることなどをいうこともあり、いずれも不名誉な行為とされた。
※武門要鑑抄(1640)二一「犬鎗は柵越し溝越しの鎗是なり」
こちらのように戦国武士は投げ槍を嫌ったというイメージは根強いようです。一方で当時の武士たち自身が記した覚書類を初め、戦国時代を扱った文献に投げ槍が特に批判的な扱いを受けることなく登場するケースも少なくありません。そのギャップについて考えるのがこの項目【日本の投槍】になります。
さて、冒頭『日本国語大辞典』に引かれる『武門要鑑抄』は越後流(の要門派)軍学のテキストです。念のためですが軍学とは以下のような学問体系を指します。
精選版 日本国語大辞典「軍学」の解説
kotobank.jpぐん‐がく【軍学】
〘名〙 戦術、用兵などについて研究する学問。戦国時代から江戸初期に至って、中国の兵学の七書の影響から離れ、単に物理的なものから武を徳とする精神の確立に重点を置く日本独自の学問として体系化された。甲州、北条、山鹿、越後、楠木などの各流があった。兵学。兵法。
※雑俳・三国志(1709)「軍学は心にたてる城がまへ」
軍学流派の中には比較的早期に成立し、戦国の知恵がそれほど改変されず伝わった部分もあるかもしれないですし、戦国の同時代史料に乏しい分野に関する検討材料としてはそのテキストも使い道があるでしょう。しかし解説に「精神の確立に重点を置く」とあるように必ずしも実戦に即した知恵ばかりによって形成されているわけではない点は注意すべきです。また、時代が下れば軍学の担い手も太平の世しか知らない人々ばかりになり、机上の空論めいた言説もますます増えることになります。
「犬槍」「槍を投げつけること」についての注意・蔑視は、実際そういった江戸時代の軍学関連文献に見られます。まずそれらを具体的にいくつか引いて内容を確認し、検討してみましょう。
A『武門要鑑抄』(※1)
不覚働
・追討の験、こぼれ者に付き数を取事、不覚の働なり。
相討はふがい無き働なり。侍に於ては吟味の上を以て、其沙汰あるべし。悴者ならば批判に及ばず。犬鎗は柵越し溝越しの鎗是なり、付、投突の鎗これ必ず表気の働なり。
首違ひ、是は軍礼不案内の武者にあるべし。
右の類何れも不覚の働と相定むるなり。
B『甲陽軍鑑末書結要本』(※2)
・付 なけつきの鑓は作法しらす、しかもうわき者のわざ也、
八、馬上の鑓まつたく鑓にあらす、是を鑓と申は、必定ぶあんないの武士なり、付此外かきごし、かべこし鑓、土居こしの鑓、本のやうにあらす、末書下巻七まての中にあり、
C『甲陽軍鑑末書』(※3)
九品之八
・四 屏越、堀越、柵木越、かき越、あるひは屏の上下なげつきの鑓、追崩しての後、敵ふりまわりて退を討とて鑓にてうちあひ候事有、是は追かけ鑓と申候に、是を鑓と申て大小自満(原文ママ:自慢)仕奉公人有べし、是も臆病の内也
D『信玄全集末書』上巻之六(※3)
・又は屏の上下なげつきの鑓、或は敵身方よき足場にて敵も二三人身方も四五人、備を二三十間すすみ出鑓を以突合も本の鑓にあらず、
・或は大合戦に敵を追崩してより後二人三人五人十人五十三十かたまりのく所へ、追て行うたんとすれば敵も鑓をふり廻ると鑓合たるもあしくばあらざれ共、本の鑓とはいはず追鑓又ははらひ鑓とて、屏堀越などにあはててなげ突の鑓同意なり、然るを一番鑓などの様に思ひ過言するを、なべて犬鑓とて不覚と定るなり。
Aが越後流系統の要門流である以外は全て甲州流となります。A・Bの「表気の働」「うわき者のわざ」は大体同義でしょう。これらに関しては「柵越し溝越しの鎗」「かきごし、かべこし鑓、土居こしの鑓」等の「犬鑓」「本(の鑓)のやうにあらす」というものとも区別されてて一層厳しく批判されているように取れそうです。Bでは作法しらずとまで言われます。
一方、C・Dのように「なげつきの鑓」も含めた戦い方は「あしくばあらざれ共」と戦場においてあり得る攻撃手段ではあるが、これを自慢してしまうことや一番槍などの勇敢な手柄(本の槍)と同じように過言する場合が不覚なのだというような理解もあります。A・Bが単に言葉足らずで実際にはC・Dと大差ないことを言いたい可能性も否定できませんが、こうして見ると軍学という括りの中においても、甲州流の中においても投げ突きの槍の位置づけは案外一定ではないようにも思われます。
また、冒頭『日本国語大辞典』にあるような「柵またはみぞを越えようとする相手を突くこと」が「不名誉」という話も例えば以下のような実際の軍学のテキストを見る限り違った見方をした方がよさそうに思えます。こちらの三文献ともそれぞれ別の軍学流派に属しますが全て甲州流やそこから出た流れのものなので、同系統の犬槍・本の槍ではないものを理解する助けになるはずです。
■『信玄全集末書』上巻之六(甲州流)
・一狗鑓といふは、垣屏幕柵木或は築地堀岸などを隔て鑓を合せ、或は四五間一二間斗の溝越の鑓、
■『兵法雄鑑』(北条流 流祖北条氏長は小幡景憲の弟子で北条家伝来の軍法ではなく甲州流系統)(※4)
・かきべい(垣屏)或いはつひぢ(築地)溝などを隔て鑓を合せ、或は敵をおひ崩してより後、二人三人かたまりて退く所へ、追つめうたんとするは、敵も鑓をなをすと鑓合せたるも、あしくはあらざれども、本の鑓とはいはず。しかるを一番鑓などの様におもひ過言するを、犬鑓となづけ、不覚と定るなり。
■『武教全書』(山鹿素行の著書 素行は北条流・甲州流両方を修める)(※5)
・古老伝へて曰はく、犬鑓と云ふは、屏越・幕越・垣越・溝越・築地越也と云々。私に曰く、右の五箇条是れを犬鑓と云ふなるべし、但し鑓にあらざるにはあらず、鑓と云ふべからず。故如何となれば、此の五箇処の類何れも甚しき勝負にあらず、其の上間一重隔てたる鑓なれば、間の隔たれるを互に便に致して鑓を使ふこと為しよし。凡そ武勇の高名は其の志を以て上とす、故に鑓と云ふは以前に記すところ外をば是れを云ふべからず、右の外に敵敗軍して、其の内より五人十人かたまり退く処へ追付いて鑓を致すも犬鑓也。又城などを遠巻して、敵備を虎口より出したる刻、其処へ押詰めて鑓を致すも真の鑓にあらず。但し是れは其の様子によりて定まりの鑓もあるべし。此くの如くよく穿鑿を分つべき也。
これらを見る限り、柵越・溝越の槍と呼ばれる行為は「柵またはみぞを越えようとする相手を突くこと」ではなく、「柵越しに突く槍」「溝越しに突く槍」、即ち敵がそれ以上肉薄してこない柵や溝をあてにして槍を突くような、さほど勇敢さを要求されない戦闘行為のことです。やはりそれらの行為そのものは不作法などに当たらず、それを一番槍などのような勇敢な手柄と同様に申告することが問題とされたということがこちら三文献にも書かれます。
そもそも敵を遮るための防御施設なのに「柵またはみぞを越えようとする相手を突くこと」を不名誉などとしていては拠点の防衛さえおぼつかなくなってしまいますから、こちらのように理解するほうが適当かと考えられます。北条流、甲州流両方を学んでいる後発の山鹿素行はさすがに柔軟というか、「但し是れは其の様子によりて定まりの鑓もあるべし。此くの如くよく穿鑿を分つべき也」と犬槍とされるものが手柄となるのもケースバイケースであり得るように書いています。
また、馬上の槍が槍にあらずとされることが気になっていた人もいるかもしれませんが、それに対する答えも素行の『武教全書』から見てみましょう。
■『武教全書』
・或ひと曰はく、馬上の鑓を犬鑓となすこと如何。曰はく、雄備集に曰はく、馬上は敵を追ふ時か味方崩色付きたる時のことなれば、真の勝負にあらず、爰を以て犬鑓に比すべしと云々。○竊に按ずるに、馬上にては歩立と違ひ進退の勢格別なるを以て、馬を頼に致すところあり、故に真の勝負と云ふべからず。然れどもこれ亦其の仕方時節に仍つて誉なるべしといへども、是れを自称なすに於いては犬鑓と云ふべし。
馬上の槍が犬槍であるという理由も、敵方が崩れた時に突っ込むことになるので真の勝負ではないとか、馬の勢いに頼るから真の勝負ではないというような理由です。現実には時と場合によっては誉ともなり得るが、それを自分で称賛してしまうのは犬槍であるとあります。つまり馬上では槍は使われないという意味ではありません。
ただ、これらはあくまで江戸期軍学テキストに見られる価値観です。こういった軍学流派の主張を最大限に尊重すれば、謙信流の元になった越後、甲州流の元になった甲斐の軍法においてはそうだったということになるのでしょう。しかし少なくとも甲斐武田氏に関して言うと、甲州流軍学の祖・小幡景憲以前から存在するという『甲陽軍鑑』本編の「品第卅九」「第四十上」等の軍功や槍の功名に関する箇所には犬槍や投げ突きについて書かれてはいませんでした。
それ以外のパートも以下の国会図書館デジタルコレクション全文検索で『甲陽軍鑑 (甲陽叢書 ; 第1,2篇) 』(※6)から軍学関連文献に見られる「犬鑓」「犬槍」「犬鎗」「狗鑓」「狗槍」「狗鎗」「投突」「なけつき」「なげつき」「擲突」などで検索しましたが、全くヒットしません。
「投げ」「なげ」「なけ」「擲」「犬」「狗」単独で検索する、あるいは「鑓」単独やそれと誤認識されやすい「鍵」「鐘」「鐵」などの文字単独で根気よく調べてみると、「本の鍵」と誤認識された以下のような「本の鑓」がようやく見つかるくらいです。
■『甲陽軍鑑』「品第三十」
・しゆび不合成をはぢとも思はざるは、うはきにてぶせんさくの故、六七度の武篇場数も人の跡しりに付ありき、よき武士のはがいの下にて、はづれを仕て、本の鑓のごとくにまん(慢)するは、今諏訪五郞左衛門、不案內の故なり、
人の尻について行っておこぼれに預かる形で稼いだ槍の手柄を「本の槍」のように誇っていたという今諏訪五郎左衛門に対する批判の箇所です。「うはき」「本の鑓のごとく」などの言い回しや扱いは確かに江戸期軍学のものとよく似ています。
まだ根拠を集め尽くしたとは言えない段階での推測ですが、こうした「本の槍」ではないものを多少人為的に概念として整え直したのが後の軍学でいうところの犬槍であるかもしれません。しかし、いずれにしろ成立が古いとされる『甲陽軍鑑』本編から投げ槍を否定的に見る感覚は発見できませんでした。果たしてその行為を作法しらず、不名誉とするのは、戦国の甲斐において実際に見られた価値基準だったのでしょうか?最終的には甲斐・越後の一次史料の類をできる限り確認した上で結論を出したいと思います。
次回は「三河武士たちの投げ槍」と題し、槍半蔵として知られる渡辺守綱の投げ槍など、戦国三河武士たちの著作に見られる槍の投げ突きを紹介・検討します。
引用元・参考文献:
1:有馬成甫・監修 石岡久夫・編 『日本兵法全集2』(人物往来社)
2:広瀬広一 赤岡重樹・校訂 『甲斐叢書 第9巻』(甲斐叢書刊行会)
3:広瀬広一 赤岡重樹・校訂 『甲斐叢書 第5巻』(甲斐叢書刊行会)
4:有馬成甫・監修 石岡久夫・編 『日本兵法全集3』(人物往来社)
5:広瀬豊・編 『山鹿素行全集 第四』(教材社)
6:山田弘道・校 『甲陽軍鑑 (甲陽叢書 第1,2篇)』(温故堂)